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かつて『リュミエール』という雑誌があった・其一(「73年の世代」)

映画の不自由さ

 今では伝説化されている『表層批評宣言』の有名な出だしの鬼面人を威すような20行を超える文章(「たとえば「批評」をめぐって書き継がれようとしながらいまだ言葉たることができず、ほの暗く湿った欲望としての自分をもてあましていただけのものが、その環境としてある湿原一帯にみなぎる前言語的地熱の高揚を共有しつつ・・・・・」)によって、「蓮實節」とも呼ばれた(淀川長治は「般若心経」と呼んだ)華麗な文章(あるいは丸谷才一によれば「悪文」?)ばかりがクローズ・アップされる蓮實重彦の映画評論だが、あれらの文章は、実際のところ、映画の現実的な具体性、とりわけ映画の不自由さをめぐって書き継がれていた。

 映画とは、いわば不自由の同義語である。しかし、その不自由は、映画をとりまく状況の困難からくる社会的な不自由の映画への投影としてあるのではなく、もっぱら映画自身からくるものだ。映画は、みずから自分自身にいくつもの障碍を設けることで、はじめて映画たりうるものなのである

「映像の理論から理論の映像へ」

 たとえば向かい合って見つめあう人間の視線を映画は描くことができず、「見つめあう二つの瞳にキャメラは徹底して無力」なのである。小津安二郎の構図=逆構図は、そのような映画の弱点への挑戦であった。あるいは「映画は、縦の世界を垂直に貫く運動に対して徹底して無力である」。横長の長方形という映画のスクリーンの特性上、映画は水平の運動には雄弁さを発揮することができるが、上昇や落下という垂直の運動に対しては驚くほど貧しい対応しかできていないのである。「墜落する飛行機が上下移動で撮られたためしはないのである。要するに、映画が捉えうる対象はそう簡単に落下したり上昇したりはしてくれないという事実が、歴史的に立証されているということだ」(「映画と落ちること」)。

 そのような映画の物質的条件を前にして映画は俯瞰の構図で対応した。上昇運動を表現するには被写体とのかなりな距離が必要とされるがゆえ、映画は「高さ」の次元に「遠さ」の次元を導入して、この不自由さに対応した。「そこで映画は、遠さの印象に高さのそれを付加させんする場合、地表を離れつつある対象を見つめる者たちの顔をやや俯瞰ぎみに挿入することで、上昇または下降の運動を制度的に馴致せしめたのである」。こうした俯瞰による斜めの構図は、30年代のハリウッド映画によって制度化され、映画のそこかしこで見られるものとなった。「たとえば屋根の上の盗賊と地上の追手たちとの銃撃戦といった光景は、ハリウッド活劇の典型ともいうべき西部劇やギャング映画ではいやというほど見せつけられたものである」。

 そしてまた、映画は「愛戯の瞬間にある一組の男女をいかに画面におさめるかについて一貫して無知なのである」(「加藤泰の『日本侠花伝』」)。カメラの位置を高めたり、クローズ・アップにしてみたり、といろいろと工夫はしてみるものの、「技法」として成功したためしはない。そのような映画の未開拓の領域に果敢に挑戦したのが名匠加藤泰である。映画にあって、そう簡単に人が寝てくれない現実があるのなら、発想そのものを変えるしかない。それでは斜めの構図を導入したらどうか。

 むしろ、女が男の上にかがみ込んだようなかたちはどうか。問題は二人の視線なのだ。これを上下にではなく、ななめに交わらせてみる。それにはどうすればいいか。たとえば男にけがをさせる。例の、心ある刺客の「急所をはずした」一撃というテーマを生かせば、男は死へと滑り落ちることなく身を横たえることができるし、女がそれをかばうようにかがみ込むことができる。たとえば『花と龍』の第一部の終わりで、渡哲也を介抱する香山美子が口にする強烈な生への回帰の言葉、あの美しい場面はそんなふうにして生まれたのではないか。

「加藤泰の『日本侠花伝』」

 斬新な解釈である。こうした解釈は、映画の不自由さを見極めるところから生まれる。「映画の自由」といった口当たりがいいばかりで抽象的でしかない言葉を遠ざけ、映画が向きあわなければならない障碍との真摯な対話を通して映画は創造される。しかしそのような対話はいっこうになされる気配がない。それは頽廃ではないのか。1980年前後に書かれた蓮實の映画評論の底流にあるのはそのような苛立ちである。

頽廃を告発する

 1980年前後に書かれたいわゆる蓮實節の評論の中でしばしば口にされたのは、「不自由」という言葉と同時に「頽廃」という言葉であった。それは映画の具体性が見失われている現状の指摘とともにあった。

 夜が映画から奪われてゆく。この現象は、とりわけ色彩映画において顕著な傾向である。いずれにせよ、それは映画作家たちの感性の頽廃を証拠立てているわけだが、観客たちの感性もまた闇の喪失にさして苛立っているようにはみえない。事態は、だからかなり深刻である。

「映画と色彩」

 これは1981年に書かれた「映画と色彩」からの引用であるが、蓮實は、闇が闇として露呈していたのはキューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968年)が最後であったと書いている。また、物質的条件として「純粋にフィルムの質の問題としても、イーストマンカラーやフジカラーは黒さへの感度が鈍いように思う」ということも書いている。蓮實は、徹頭徹尾、映画の肉体にこだわっていた。それが唯一の映画の擁護であると、確信しているかのように。たとえば、『十二人の怒れる男』には、映画の肉体としての闇が「水」とともに息づいているとして、ラストの場面のみごとな夜景を激賞する。「夜というのは黒白で撮る場合には、どこかに光を置き、そしてあと水を打ち、水を打つそこにさまざまな光の反映が出てくるということによってしか示さないわけですね」。こうした技法、そしてそれを支える感性が、次々と信じられないような勢いで映画の世界から失われてゆく。なぜこのようなことになってしまうのか。それは映画に対する供養を誰も本気で行おうとしないからではないのか。こうして1985年9月、映画を供養する雑誌『リュミエール』が創刊された。

辛気くささ=歴史の導入

 「映画は日々、信じがたいほど多くのものを失いつつあるのであり、そのことに無自覚な作家は倫理性を欠いているというべきでしょう」1985年4月27日多摩美術大学で行われた講演(『映画はいかにして死ぬか』所収)で、蓮實重彦は、聴衆にむかってそう語った。蓮実の言葉には、滅びつつあるものへの哀惜と周囲にはびこる危機感の不在に対する無念さや口惜しさが含まれているが、まず何よりも彼が強調したかったことは、現実的な運動としてある映画の歴史的条件をきちんと捉える聡明さを観客は身につけなければならない、といういたって当たり前のことである。「映画はけっして永遠のものではなく、きわめて歴史的な体験なのだと意識することなく映画を論じることは、抽象的な言説しか生み出さないでしょう」そう語る蓮実は、1950年代と1973年が映画の歴史にとってことのほか重要なのだと主張する。映画史における1950年代の問題は、また別の原稿で書くこととして、ここでは1973年に話題をしぼることにする。

 1973年に制作されたヴィム・ヴェンダースの『都会のアリス』の終盤で、主人公が列車の中で新聞を広げ、ひとつの記事に目をとめる。カメラはその記事をアップでとらえるが、そこには「ジョン・フォード死す」の文字が映っている。『駅馬車』や『わが谷は緑なりき』などの名作で知られる巨匠が死去し、映画の神話時代が終わったのが1973年なのである。そして「映画には歴史がある」という単純であると同時に残酷な事実を、痛いほどに自覚した新しい作家たちが世界のあちらこちらから登場し始めるのが1973年前後のことなのである。新しい作家とは、具体的に名をあげるなら、ヴェンダース、エリセ、シュミット、イーストウッドである。

 彼らのことを蓮實は「73年の世代」と命名し、蓮實が編集長を務めた『リュミエール』創刊号は彼らを特集した(73年はエリセが『ミツバチのささやき』を発表した年であるが、この映画が日本で公開されたのが1985年の2月であった。85年の9月に『リュミエール』創刊号が発売され、同年10月にはエリセの第2作『エル・スール』がシネ・ヴィヴァン六本木で公開された)。73年に映画史において変容があったという蓮實の指摘に「本当にその通りだ」とシュミットは同意する。「すべては73年の周辺に起こっていたのだ。そして、その事実を、これまで全く意識していなかった。あれは、いったい、どういうことだったんだろう」。彼らは、「59年という一時期にパリで一挙に盛りあがり、あっという間に世界的な名声を博したヌーヴェル・ヴァーグ」とは異質のグループであった。「ヌーヴェル・ヴァーグ」に遅れてやって来た彼らは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」が知ることのなかった不幸な意識にとらわれていた。

 おそらくそれは、ヌーヴェル・ヴァーグが破壊による構築の試みであったのに反して、「73年の世代」の前には、映画が、もはや、破壊の対象としては存在していなかったことからくるものだろう。その事実を象徴しているのが、73年のジョン・フォードの死なのである。破壊による構築というヌーヴェル・ヴァーグの姿勢さえ良き時代の楽天性と思えるような状況が73年の周辺に形成されてしまっているのである。壊すこと、作りあげること、その二つの身振りは、「73年の世代」にはともに禁じられている。

 壊すこと、作り上げること、その二つを禁じられた人間に残されているのは、認識することとその認識を通して供養にも似た、失われてゆくものへ情動的な執着を示すことだろう。映画はどんどん劣化してゆく。夜の闇が消えた。黒が消えると同時に映画では白も消えた。雨も消えた。雪も消えた。『リュミエール』創刊号でのインタビューの中で、シュミットは、ここ30年の間に、経験豊かな年長者の体験を聞き、それによって自分を作り上げ、次の世代につなげるという体験がもう成立しない、と嘆いている。蓮實もまた、80年代のアメリカ映画における「老人」の不在を指摘している。こうして「映画の死」の予感を徐々に顕在化してゆく状況にあって、「その死があまりに明らかであるがゆえに、その遺骸を手厚く葬ることそのものが自分の姿勢を支える」ことを自覚した作家たちが「73年の世代」であり、彼らへの連帯を表明したのが今は無き『リュミエール』であった。

 ジョン・フォードのように無意識のレベルで映画と関わることのできる幸福は、73年の世代には許されていない。彼らは映画の歴史に目覚めた意識的存在であった。ヘーゲルが言うように、意識とは不幸の意識であるが、歴史は不幸を通してしか認識できない(小林秀雄なら「子を失った母の悲しみ」というだろう)。戦争や災害を体験することによってしか歴史の重みを認識できないように。未曽有の震災からわずか5年後にして経済成長を最優先課題ととらえるこの国は、良くも悪くも「多幸症」の国なのであろう。そこで真っ当な歴史感覚は育まれるのだろうか。蓮実は『リュミエール』の創刊にあたって次のように述べた。

 そのひどさの根拠は、やはり、失われたものにしかるべき供養をしていないということですね。それは、アメリカ映画が五〇年代に崩れたならば、それに対する供養を誰も本気でしないでいることからくる弱点です。

『映画はいかにして死ぬか』

 蓮實は、また、『リュミエール』を辛気くさい映画供養の雑誌と呼ぶのだが、辛気くささに背を向けたとき、人は歴史から目を背けることになるだろう。少なくとも、私は『リュミエール』の辛気くさい特集を通して、歴史の見方を学んだ。とりわけ、いわゆる「B級映画」が過酷な歴史の産物であることを『リュミエール』から学んだのだが、そのことについては別の原稿に書くことにして、ここでいったんこの原稿を終える。



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