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『言語哲学がはじまる』(野矢茂樹)

野矢茂樹さんは『論理学』において、論理学は二つの面からアプローチしなければならないと言っています。一つは意味論的側面、もう一つは構文論的側面である。
何も分からないで書いているので、適当なことを言っているかも知れませんが、野矢さんの本で言うと、論理学の構文論的側面を掘り下げたのが『入門!論理学』で『言語哲学がはじまる』は意味論的側面を扱ったものだと思います。
さて、構文論はとても分かりやすいです。
『論理学』の序論から例に挙げられているのはユークリッド幾何学です。
前提となる公理があり、そこから確固たる記号操作(論理式と導出規則)によってある論理式が証明される。
ただ、問題があります。ユークリッド幾何学は幾何学なので、点や円や直線などの図形を扱う訳ですけど、直線とは何かと聞かれても答えられません。イメージは湧くけど、定義が定められない。辞書的に「直線とはまっすぐな線です」と言ってみても「まっすぐ」とは何か「線」とは何かを続いて定義しなければならなくなり、この作業が延々続きます。
実際の国語事典でよくあるパターンですが、結局、どこかで定義が循環してしまうのですね。「右とは左の反対」「左とは右の反対」というように。
そこで、どうするかというと、点や直線を定義することは諦める。「無定義述語」だとしてしまう。すごい開きなおりですね。(「無定義」とは果して定義なのか?)そして、その代り、それらは公理によって間接的に定義されているのだとするのです。
野崎昭弘さんの『不完全性定理』(ちくま文庫)を参考にしますと、「任意の点から任意の点へ、直線をひくことができる」という公理を満たすものが「点」であり「直線」である、と。
我々が漠然と持っている「点」とか「直線」に対して持っているイメージ(つまり意味)を単語から引き剥がしてしまう訳ですね。ここからヒルベルトの「点や直線や平面の代りにテーブルと椅子とコップでも良い」という考えが生まれる。
野矢さんの『論理学』に戻りますが、論理学の構文論的側面とは公理系における記号操作である、と。演繹的な記号操作が妥当であればよい。
そして「公理系内部で無矛盾でさえあれば何でもよい」ということから、様々な公理系(まっすぐではない直線などを扱う非ユークリッド幾何学など)へと進んでいく訳ですが、ただ実際には、点や直線や円に対する何らのイメージになし幾何学を学ぶのはナンセンスですね。
ヒルベルトは「点や直線や平面の代りにテーブルと椅子とコップでも良い」と言うのですが、実際、そういう訳にはいかない。
そこで、意味論的側面を考えなければならないのですね。
ここでの「意味」とは言語と世界との関係を指します。
点や直線が実際には世界の何とどういう関係を持っているのかは、難しい問題ですが、イメージとしては何となく分かる。「三角形とは何か」を厳密に定義しようとすると、またまた定義の罠にはまって抜けられなくなりますが、とはいえ、なにがしかのイメージはある。
また、点や直線などの一般名ではなく、固有名の意味とは何かを考えてみると、こちらは分かりやすい。固有名の意味とは固有名が指し示す個体であるといえる。「ミケ」はうちの猫であり(飼っていれば、ですが)、「夏目漱石」といえば、明治に生きたあの文豪であり、ただ一人である。これは分かる。言語と世界が直接対応しているのですから。
しかし、では、文章(命題)の意味とは何かとなると困ってしまう。
ここで野矢さんは二つの道を示します。
一つは、単語の意味を確定した上で、それらの単語だけで文を構成すれば文の意味も自ずと分かるだろうという「合成原理」です。
しかし、これだとユークリッド幾何学における点や直線が、それ単体では定義できないというのと同様の問題が発生します。
もう一つは、語の意味は、文全体との関係において決まるという「文脈原理」ですが、野矢さんはそうは書いていないのだけれど、これは「無定義述語は公理によって間接的に定義されている」という数学の公理主義にあたるのでしょうね。
しかし、「猫」を一切定義せずに「猫」を使った文章が構成出来るのかどうか。単語の意味なしに文章の意味が確定するのだろうか。
ここで論理学が示す結論は野矢さん自身が語っているようにあっと驚くものです。
論理学における「命題(文章)の意味」とは、その命題が真か偽か、である。
まず「猫」という単語を「xは猫である」という述語であるとする。(結構な飛躍だ)
そして、「xは猫である」のxに「ミケ」を入れれば正しいし、「夏目漱石」を入れれば間違いですね。
これを関数として考えると、「ミケ」を入力すると「真」という値を返し、「夏目漱石」を入力すると「偽」を返すのだと言える。
つまり、「xは猫である」という述語は、個体を入力すると真理値(真か偽か)を返す関数なのである。これを「命題関数」という。
述語を命題関数と捉えた場合、命題と世界の関係はその命題が真であるか、偽であるかだけになる。これが命題論理の意味論的側面における肝である。
繰り返しますが、命題とは、個体(たとえば夏目漱石)から真理値(真か偽か)への関数であり、それこそが命題の意味なのである(なんと!)。
まあ、普通に考えたら、到底納得出来ないんですけどね。
野矢さんは、そもそも哲学において「意味」というものが何なのか、定まってはいないのだという。だから、構文論に比べて意味論が混乱するのも仕方ないのですね。
我々が、論理学を学んでいるといったい何のために何をやっているのか途中で分からなくなるのは、このせいでしょうね。論理と世界との関係が全くないように思えるからです。勿論、真偽以外の世界との関係を一旦断ち切って抽象的な演繹操作に専念する所に命題論理の価値があるんでしょうけど。
そして、命題論理は述語論理、様相論理と進むに従って真偽以外の世界との関係を取り戻していくように見える。(様相論理における世界との関係の取り結び方に問題がないかというのはある。強引過ぎないですかね。「可能世界」っていったい何だ?)

『言語哲学がはじまる』における意味論はこんな雑なものではなくて、更に更に深く続くのですが、この辺でまとめてみます。
野矢さんの著作でいうと、正統的(?)な論理学の教科書が『論理学』、それとほぼ同じ構成ながら難易度を落としたのが『まったくゼロからの論理学』、論理学の構文論的側面を解説したのが『入門!論理学』、意味論的側面を深掘りしたのが『言語哲学がはじまる』ということになるでしょうか。
『入門!論理学』で論理学に入門しては駄目だと思います。遠回り過ぎる。この本で「真理値」が登場するのはだいぶ後半になってからです。さすがにちょっと迂遠ですね。入門というよりむしろ上級編に見える。
すると入門には『まったくゼロからの論理学』が良さそうですが、野矢さんの本はどれもワンステップごとにじっくり考えさせるものなので、なかなか骨が折れます。ざっくり教科書的に命題論理・述語論理を一通り見てからの方がいいように思います。それこそYouTubeとかでもいいと思う。
なんか、何も分かってない人間がブックガイドめいたことをしてしまいました。後で後悔しそうだ。あまり信用しないようにしてください。

※内容とは無関係ですが『論理学』のKindle版はスキャンに失敗して、かなり盛大にページが歪んでいます。ちょっと耐えられないほどに。なので、リアルの本をお勧めします。


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