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長い思い出

『読書』を好きになるまで

僕は読書が割と好きです。
専ら小説が多いです。
3年ほど前から、ルポルタージュも読むようになりました。
でも、やっぱり行為としての読書が割と好きなので、小説が多いです。
(行為としての読書、については後で書いてると思う)

元々、国語の授業は好きでも嫌いでもありませんでした。
授業で扱う評論文とか小説とかに、コレおもしれえなぁ、続きが気になるなぁ、とか思ったことがありませんでした。
そんな僕が、読書は割と好き、という状態になったのは、今までの人生で少しだけ、本に触れる機会があったからです。

10代前半までは、言葉を使うこと、話すこと、書くこと、それらは好きだったお笑いに影響されていたと思います。
友達に面白いと思われることが、自分の立ち位置だと思っていました。自前のギャグをしたり、人気芸人の真似をしたり、ここでこうすればアイツ位は笑うかなぁ、なんて考えて過ごしていました。
本を読むなんて、ガリ勉がする事だと思っていました。

中一だったか、中二だったかの時、友達だったか、国語の先生だったかに勧められて、星新一のショートショートを読みました。
ボッコちゃんだったか、味ラジオだったか、はじめて面白い、と思いました。短いのに話に引き込まれ、話の最後には突き放されて、星新一ワールドを浮遊するような感覚。不思議な満足感。頭の中で反芻されて想像される後日談。
ハマりました。友達に星新一のショートショートを沢山持っている子がいました。ほぼ毎週通っては読ませてもらった憶えがあります。なぁ、剛。

だからって読書を好きにはなりませんでした。
好きになったのは星新一のショートショートであって、読書ではありませんでした。その証拠にハリーポッターシリーズは当時の僕にはひと作品が長編過ぎて集中力が持たないので、読める代物ではありませんでした。
面白い作品は読める。面白いと思えない作品は読めない。そんな認識でした。

高校生になって、ラグビー部に入り部活漬けの毎日を過ごすと、読書は優先されなくなりました。
現代文で扱われた羅生門はクソつまらねえし、でもテスト対策はしないといけない。当時の僕にとって文章に触れる機会は学校教育以外になく、成績に係わるもの以上の意味を持ちませんでした。

部活を引退しセンター試験を1ヶ月半後に控えていた頃、猛ピッチで勉強に励んでいた頃。市立図書館の自習室を使っていました。誰かが近くで勉強している、且つお喋り厳禁、また、居眠りはダサい、という状態を強制するために図書館の自習室を使っていました。(だって家に直帰したらシコって寝ちゃうんだもの)

平日は授業を終えたら図書館へ。休日は朝から晩まで図書館で。

勉強に励んではいましたが、自習室にいる間の全ての時間、勉強に集中できる訳もなく、気分転換と称してよく本堂である図書室へ足を運びました。

宛もなくフラフラと陳列された本のタイトルを眺めては、それにも飽きて自習室に戻る、という無意味な動作をルーティン化してしまっていたある時、目に飛び込んできたのが、夢枕獏著''餓狼伝''でした。

刃牙シリーズ描いてる板垣恵介の漫画で、このタイトルの格闘漫画あったよな。これが原作か。読んでみよ。
こんな気持ちで手に取った、厚さ6cmはあろうかという、「新書」と呼ばれるスタイルのこの本を、勉強時間の大半を返上してまで、僕は読みふけってしまいました。

とにかく面白かったんです。読み進める目に、頭が追いつかない程に。1冊を読み終わっても続きが気になって気になって仕方がないから、勉強をやめて続編を借りてまた読みふける程に。
餓狼伝としての話も面白かったのですが、夢枕獏の筆の運びに魅了されたことも、ハマった原因のひとつだと思います。脳内に映像が焼き付くような描写で、登場人物の歯ぎしりが、息遣いが、滴る汗がリアルに感じられる様な、むさ苦しくも清々しい表現でした。
『歯を噛む』なんて表現は夢枕獏以外に見たことがありません。

図書室に置いてある分の餓狼伝を全て読み終わった後、やっと勉強に集中できると思ったら、次に目に入ったのは、夢枕獏コーナーにあった''荒野に獣慟哭す''のタイトルでした。

諦めました。

すっかり夢枕獏に魅了された僕は、欲望のままにその本を手に取り、静かに落ちていきました。

受験勉強をしなくてはならない、という義務の中でしなくてもいい読書をする。
はじめてイケナイことをした様な、甘い蜜を塗った禁断の果実に手を出した様な感覚でした。
ひとしきり読み終わって、我に返り、やはり逃れられない受験勉強に身を投じ、なんとか、受験自体は失敗せず、目標とする学校に入学出来たのは、本当に幸いでした。

この頃には、読書をある程度好きになっていました。読書には、漫画や映画などの映像体験に無い、読書特有の読書体験がある、と考えていました。

大学の4年間は、映像化された作品の原作タイトルに手を出し、そこから筆者の持つ作品の空気に触れ、好きだと感じた筆者の作品を追う、という選書をしていました。
例えば東野圭吾による容疑者Xの献身、真夏の方程式等のガリレオシリーズ。
例えば横山秀夫による半落ちに始まり横山秀夫の全著。
例えば今野敏による隠蔽捜査シリーズ。
何故か警察小説が多かったのは、謎多き事件の真相に着々と近づいて行く体験が癖になっていたからでしょう。

フラフラと本屋に足を運んで、気になった1冊を選び、1週間ほどかけてゆっくり読む。こんな読書生活を続け、読書という行為を好むようになりました。

ここで僕がいう、行為としての読書とは、その時その時に僕自身を満たしてくれる、読書体験の事です。時間をかけて1冊の本を読み進める中で、登場人物の感情を模倣し、同じように凹み、同じように立ち直り、同じように成長できたような感覚に陥れたのです。
この体験が僕をして読書を好きにせしめました。


読書を好きになったは良いものの

社会人になって暫くした頃、いつものように本屋をフラフラと歩いていると、目に入ったこの帯。
読書好きとして、煽られたような気がして、読んだろうわい、という気持ちで手に取ったこのルポルタージュを、僕は泣いて嗚咽を漏らしながら読了しました。
本を人に勧めるなんて、自分の趣味、価値観を人に押し付けるようで下品極まりないとも思っていた僕が、はじめて友人に読んで欲しい、と紹介しました。
この本に出会うまで、本は面白いかそうでないか、で分類していた僕の価値観は大きく揺さぶられ、社会のあるべき姿、などの僕のような若輩者にはおこがましいテーマについても考えるようになりました。

そうして僕は、ジョージ・オーウェルによる動物農場、1984、ウィリアム・ゴールディングによる蝿の王を読み、リベラルに目覚めていくのでした。めでたしめでたし。

ちなみに直近で読了した作品は伊藤計劃による虐殺器官です。

あと、「専ら」は「もっぱら」と読みます。

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