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解体された被爆聖堂(浦上天主堂)と現長崎市長の祖父(元長崎市長)

パリで開催されているオリンピックと間もなく開催されるパラリンピックにイスラエル選手団が参加していることに首を傾げている方々は、長崎市が昨日の平和祈念式典に駐日イスラエル大使を招待しなかったことをどのように評価されているでしょうか。

鈴木史朗 長崎市長(左)と松井一實 広島市長(右)

(広島市の松井一實市長は厚生労働省(入省時は労働省)OBですが、長崎市の鈴木史朗市長は国土交通省(入省時は運輸省)OBです。前者の父君は銅蟲職人、母君は被爆者でした。後者のご両親も被爆者ですが、母方の祖父である田川務氏は1951年から1967年まで長崎市長を務められました。)

さて、1959年に再建された(爆心地から500メートル離れた)浦上天主堂(1962年以降はカトリック長崎大司教区の司教座聖堂)は約7千人の所属信徒を誇る国内最大規模のカトリック教会ですが、ヒロシマといえば(爆心地から200メートル離れた)原爆ドーム(ヤン・レッツェル(現在のチェコ共和国にあるボヘミアのナーホト出身)が設計した公共施設である広島県産業奨励館、旧称・広島県物産陳列館)を大勢が思い浮かべるように

3D, 4K archives HIROSHIMA, NAGASAKI 2015
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アメリカの余計なお世話がなければ、ナガサキといえば被爆聖堂(教会の私有財産である浦上天主堂)を思い浮かべることになっていたかもしれません。

災害の遺構を保存するべきか取り壊すべきかを巡って住民の意見が二分されることは平成・令和においても珍しくありませんが

広島の原爆ドームについても、1966年に保存が決定するまでには20余年に渡る様々な紆余曲折がありました。

楮山ヒロ子さんの日記(原爆資料館所蔵)

さて、日本国内で(先祖代々(隠れキリシタン以来)敬虔な)キリスト教徒(カトリック)の人口密度が最も高い長崎に米軍が原爆を投下したことは、米国内の一部のカトリック教徒を大いに悩ませた・苦しめたようです。教会施設の中でも、例えば、大浦天主堂(国宝・世界遺産)は爆心地から少し距離が離れていたため倒壊を免れましたが、米国内の一部のカトリック教徒は無残な姿になった浦上天主堂をそのまま放置しておきたくなかった(良く言えば再建したかった、悪く言えば被爆の痕跡を消し去りたかった)ようです。

3D, 4K archives HIROSHIMA, NAGASAKI 2015
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詳細については、高瀬毅氏(長崎市出身)の労作『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』他をご参照ください。

2008年8月10日に放送されたザ・スクープ スペシャル
(調査および報道された内容は不完全)

<特集1>  「終戦翌日に何が?特攻隊員ら111人死亡…特攻艇“震洋”の悲劇」

昭和20年8月16日。終戦の翌日、高知県・住吉海岸で謎の大爆発が発生。

特攻隊員ら111人が死亡するという悲劇が起こった。爆発したのは海軍の水上特攻艇「震洋」。小型のベニヤ板製モーターボートの艇首部に爆薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦。上陸を図る敵艦に体当たりするという日本軍の水上特攻兵器だった。

終戦時には本土決戦に対する備えとして4000隻近くが実戦配備についていた。

こうした状況のなか、終戦の翌日に起こったナゾの「大爆発」、はたして事故だったのか?

それとも何らかの「不測の事態」が突然起きたのか?

戦争が終わっていたはずのその時、現場でいったい何があったのか…。

番組ではその真相を総力追跡。関係者の多くが故人となるなか、数少ない存命搭乗員に取材。初めて明らかにされた「真実」とは…。

さらに悲劇的な運命を迎えた特攻艇「震洋」関係者証言を積み重ね、現存する数々の資料を読み解き、今なお現場に残る痕跡等を検証することによって、知られざる「もう一つの神風特攻隊」の悲劇を追うとともに、終戦の大混乱のなかでいわば<歴史の影>として封印され続けてきた「ことの真相」に迫る。

<特集2> 「追跡…消えた“被爆浦上天主堂・保存計画” 63年目の真実」

被爆国日本の象徴として世界文化遺産にも登録された、広島の「原爆ドーム」。

しかし同じく原爆が投下され7万人以上が亡くなった長崎でも、被爆した教会・浦上天主堂の廃墟を「悲劇の象徴」として、そのままの形で残そうとした動きがあったことを知る人は少ない。

昭和24年に発足した原爆資料保存委員会は、戦争の記憶と記録を残すため被爆したマリア像などを含む「一連の天主堂廃墟保存」の結論を打ち出しており、昭和26年から4期16年、長崎市長を務めた田川務氏も廃墟を残す方針を表明していた。

しかし昭和31年・市長の訪米をきっかけに事態は急転する…。廃墟を残すとしていた市長がアメリカから帰国後「(天主堂の廃墟は)原爆の悲惨さを証明すべき資料には絶対ならない」と方針を一転したのだ。その結果、昭和33年、天主堂廃墟は建替えのため取り壊された。

市長の訪米中に、いったい何があったのか?そして背景に見え隠れする、冷戦下におけるアメリカの「ある思惑」とは…。

番組では、被爆した天主堂がなぜ「悲劇の象徴」として残されなかったのか?なぜ「負の歴史」を語り継ぐ遺産は失われてしまったのか?その謎を総力取材。

鳥越俊太郎がアメリカに飛び、関係者への取材を重ねて、「ことの真相」を追跡。

また、数少なくなった存命中の関係者にもインタビュー。

さらに数々の文書・資料を読み解くことを通じて、冷戦下のアメリカの「思惑」と、これまで封印されてきた「歴史の悲劇」に迫る。

長崎市の鈴木史朗市長の母方の祖父である田川務市長(故人)が浦上天主堂の保存について賛成から反対に転じた理由は藪の中です(推定の域をでません)が、米国のカトリック教会だけでなくワシントンからも強い働きかけがあったようです。

昨日の平和祈念式典にイスラエル大使が招待されなかったことと結びつけるつもりはありませんが、現市長の祖父である元市長はアメリカ(政府およびカトリック教会)に篭絡されたのではないかとの説は根も葉もない憶測ではなさそうです。


長崎の被爆マリア像、がれきから見つけ出した北海道の神父

阿部浩明

2022/8/17

カトリック長崎名誉大司教の高見三明さん(76)は「野口神父が気づかなかったら、他のがれきとともに捨てられ、人々の目に触れることもなかったでしょう」と感謝する。「キリシタン迫害の歴史を物語るだけでなく、核爆弾の恐ろしさ、戦争のむなしさを訴えるものだ」

原爆30年を迎えた75年、野口神父の長年の願いがかない、像は長崎に戻されることとなった。純心女子短大(現・長崎純心大)で保管されたのち、90年に浦上天主堂に返った。

被爆マリアは、戦争と核兵器の「もの言わぬ証言者」として世界を巡る。85年には初めて海を渡り、バチカン(ローマ教皇庁)で開催された原爆資料展で公開された。

高見さんは核廃絶と反戦を訴えるため、2010年に像をたずさえて巡礼の旅に出た。

ローマから、スペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカなどを経てニューヨークへ。「原爆の悲劇」が刻まれた像は、初めて原爆投下国に渡った。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ、国連本部で潘基文(パンギムン)事務総長(当時)に会い、長崎訪問を要請して実現した。

11年には道内でも初公開された。当時、実行委員長として公開を働きかけた札幌市の松井洋治さん(81)は「訴える力がすごく、説明など要らなかった。多くの人たちが大切なメッセージを受け取ってくれたと思う」と振り返った。

母親のおなかの中で被爆した「胎内被爆者」でもある高見さんはいま、ウクライナに侵攻したロシアの「核の脅し」に憤りを隠せない。「核兵器は決して共存できない絶対悪。核抑止論など、愚かなことだ。被爆国日本は一刻も早く核兵器禁止条約に批准して、核なき世界を追求してほしい」

(阿部浩明)





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