バトル漫画と価値観の中立性
それとめだかボックスの感想。
ドラゴンボールの感想文を読みました。
>あるバトル漫画において、もしキャラクターが戦いの最中に何らかの感情を理由にパワーアップして、その結果敵を倒してしまったとする。その場合、その時の主人公の感情(思想と言っても良い)は漫画内では「正しい」ものとして提示されてしまう。これは作者の思想信条とは無関係に、そのような演出として読者の多くは受け取ってしまう
作中の価値観の中立性という話で言えば、やはりめだかボックスの話をせざるを得ないですよね? というわけで、再びめだかボックスの話をします。
あの漫画はかなり直球にバトル漫画の勝ち負けと価値観の中立性について一石を投じていた(はずなんだ)。
具体的には、世界を紙に書かれたインクのようだと考えている安心院さんが「善も悪も平等にくだらないぜ」と主張しているのは、メタ的な視点を持った読者に「善も悪も"悪平等も"平等にくだらないぜ」なのかもしれないと思考を促す描写だった。
実際に読者の何パーセントがそこまで考察していたかはわからないけど、西尾維新先生としてはここまで考えた上で作品を読んでほしかったんじゃないかなぁ……。
私の個人的な感想としては、あの作品に登場する全ての(格好いい)主張や理屈は作品を面白くするためだけの描写で、説得力を感じた人にしか効果のないレトリックの類だと思っていて、その上で、だからこそあの作品は素晴らしかったと結論付けてる。
オールフィクション in フィクション
……とまあ、そういう目で見ると、球磨川禊と『大嘘憑き(オールフィクション)』はまさしく"フィクション"の話をしていたようにも思えてくる。
改めて言うまでもないけど、球磨川禊は話術や機転、器用さ、スキル、人望といった強さを持ち合わせている、ある意味では作中屈指の勝ち組だ。だから彼の有意義な敗北も卑怯な活躍も、彼ほどの精神的な強さを持ち合わせいない人物にとっては実用的な助けにはならないはずだ。にも関わらず、彼の勇姿はマイナス十三組の生徒(と我々読者)の勇気と希望、諦めない心を呼び起こしていた。
メタ的な深読みをすると、『現実的な参考にならなくても人の心を動かすことはできる。それこそがフィクションの役割だ』みたいな意図だったのかもしれない。
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