『あかり。』 #32 困ったおじさん・相米慎二監督の思い出譚
ポタラ宮に登り、眼下に広がる中国軍の演習をマジマジと見たせいで、相米監督が作ろうとしている映画『逃 TAO』の中に、ある種の苦味、暗喩する何かを見出したように見えた。(気がした)
下に降りようと、監督に言われて、僕らは五宝茶を飲み干した。
しかし、そこで問題が起きた。
ツアー参加者の中に、若干…というか、かなり困ったおじさんがいたのだが、その人の具合が悪くなったのだ。
この方、チベットに入っても酒も煙草もガンガンで、高山病など怖かない、と強がっていた御仁である。
しかし、その前日に、容態が急変してホテルの部屋で生きるか死ぬか・・・(というとオーバーだが)のような体で寝込んでいた。
仕方なく主催者が、酸素ボンベをあてがった。(これがかなり旧式のもので、むしろ使うのが怖い)
旧式酸素ボンベを吸う人を間近で見たが、結構心理的にはくる光景だ。
日本の病院で病人を見舞ったことはいくらでもある、しかし、それとは明らかに違う。
医者もナースもいないところで、旧式酸素ボンベはちょっと怖い。
このまま死んでも文句は言えない…という約束であるし、仕方ないのだが、もちろん死なれても困るし、同室の人はほんと辛かったことと思う。
その方は、旧式酸素ボンベのおかげで息を吹き返し、自分の行いを反省していたようであるが、翌日にはまた強がっていたのだから呆れてしまう。
で…ポタラ宮に一緒に登ることになったのだ。
なんで? わからないけど、ホテルに置いておいて容態が急変して死なれても困ると主催者は思ったのかもしれないだろうし、その人のためにツアー客の予定が変わるというのもクレームが出るかもしれないと考えたのかもしれないし、本人が行くと言い張ったのかもしれないし、真相はわからない。
まあ、嫌な予感はした。
そして、嫌な予感というのは得てして当たるものだ。
監督が目で合図した。
「はい…わかりました」と僕も頷いた。
僕は、そのおじさん担当となり一緒に下山…というか下宮することになった。置いて帰るわけに行かないのだから。
忍者屋敷ほどではないにしろ、ポタラ宮の階段は狭い。
二人がすれ違うくらいの幅である。
登ってくる人もいる。
その頃になると、『相米慎二監督はどうやら偉い監督さんらしい』、という噂がツアー客に出回るようになり、みんなから『監督、監督』と呼ばれるようになっていた。
それに監督が偉ぶる素振りは見せないのだが、すっかり老名主的な存在となり、食事の席で、日本から持ち込んだ食材(梅干しや鰹節や飴やら)が監督に上納されるようになっていた。
「お。悪いな。ありがとう」監督もそれをありがたく頂いている。
(僕も御相伴に預かった。ありがとうございました)
まあ、そんな感じの中での<ポタラ宮>だったから、もうそのおじさんを見捨てるわけにもいかなくて、じゃあ誰が面倒見るのかというと、そのとき周囲には僕しかいなかった…だけである。
僕は、おじさんを抱えたり、背中に手を添えたり、登ってくる人を避けながら肩を貸したりと、正直面倒な羽目に陥った。ヤクバターの蝋燭の匂いが急に鼻につきはじめる。
登山は下山込みで登山だというが、この時ほどそれを感じたことはなかった。
自慢じゃないが、僕は体力がない。
体育会系とは、程遠い。
撮影なら、ちょっと頑張れるのだけど、典型的な文系である。
ああ…これも学びなのかなあ…神聖な場所で苦行するとは因果なものである。
たっぷり時間をかけて下山(下宮)すると、監督が下で待っていてくれた。
「ご苦労さん」
と、ねぎらいの言葉をもらった。
それで苦行が救われた気持ちがした。
結局、相米監督が『映画監督』である所以は、こういうやさしさにあるのだ、と僕は頭を下げながら思った。
確か、その晩もラサの街を歩き、少しだけ馬乳酒を舐め、あとは中国茶にして<酸っぱい辛い粉>を啜った。
この<酸辛粉>、読み方は<サンラーフン>というらしい。
今日、こはぜ珈琲のテラス席で隣になった激辛好きのキレイな女子が教えてくれた。
何事もすぐに調べることは大切である。
そして、知らない土地に行ったら、節制し、無茶をすると、人に迷惑をかけるので御用心を。特に『高山病』は本当に怖いです。
それにしても、あのおじさん今もお元気だろうか?
なんとなく、きっと元気な気がする。