『あかり。』 #36 帰国、その他のこと・相米慎二監督の思い出譚
中国・チベットを巡る旅が終わった。
短いようで長く濃い旅だった。
空港で余った中国元を円に換金するか監督に聞いた。
余った金を見せると「なんでそんなにあるの?」と言ったので「少し自分で足しました」と言うと「そんなことしなくていいのに」とぼやいた。
「次回行く時のために、残しておきますか?」と僕が聞くと、「そうだな」と監督は笑った。
我々はそれぞれの仕事や日常に戻っていった。
帰国して、数ヶ月。普通に業務をこなした。
監督とも一緒にシリーズを続けた。
東京での日々は、以前と同じように流れていった。
あの中国人の脚本家は初稿を書き上げたのだろうか……?
気になったが、なんとなく聞けなかった。
時間がかかる作業なのは織り込み済みだ。
ただ、やはりこの映画に参加するには、会社員のままではいられないな…と思う気持ちは日々強くなっていった。
会社の企画演出部の先輩たちが、毎年一人ずつ独立していった。それを横目で見ていて、自分もいつか辞めるのだろう…とは考えていた。社風なのか、世代交代なのか、わからないけど、その頃はそんな感じで社内の時間は流れていた。
ただ、言い出すにもタイミングというか順番がある。
そんな時、社内のエース格の先輩ディレクターが退社した。その人はすごく才能がある人で、社内外の誰からも一目置かれていた。会社もずいぶん説得していたようだったが、先輩の意思は変わらなかった。
それはそれで、背中を押してもらういいきっかけになった。
僕は年内で会社を辞めようと密かに決意した。
途中入社でT社に拾ってもらい10年近くが経っていた。
監督とはシリーズの合間に今までのように会っては、相変わらずいろんな話をしていたが、退社のことはなかなか言い出せなかった。
赤坂の行きつけの珈琲屋で、僕は会社を辞めようと思います、とようやく監督に言った。
「なんで辞めるんだ!」と、監督に初めて怒られた。
「色々ありまして…」とかなんとか、モゴモゴ言い訳すると「T社はいい会社なんだから辞めるな」と説得された。
社内の一部の人間に報告した時は、そんなに引き止められなかったが、社員でもない監督が、説得しようとしているのも変な話だ。
「いえ、もう決めました」と僕が引かないと「まあ、そうだよな」とも言い出す。「チベットで監督と一緒に映画が撮りたいんです」とは、こちらも口が裂けても言えない。それがバレると監督に迷惑がかかるかもしれない。あくまで表面上は一身上の都合なのだ。
とはいえ、チベットに誘ったのは監督なのだから、薄々というか、くっきりとそれはわかっていたはずで、ただお互いに、それを口にしないだけだった。
もし、映画のことがなかったとしても、志願兵で助監督につかせてもらった時に、こうなることは決まっていたのかもしれない。
後々「あいつはバカだ」「もったいない」とか、T社を辞めることをブツブツ文句言っていたと監督のマネージャーT女史から聞いた。
ありがたい話である。
監督に報告したら、僕はスッキリし、辞めてからのことを考え出した。と言っても「マネージメント事務所に入ろうか、どうしようか」くらいの悩みだが。辞める前に誰かに根回しするとか、社外に営業するとかは、一切しなかった。仕方も知らない。スケジュール管理とか出来なさそうなので、どこかでマネージャーにお世話にならなきゃ…と考えていただけである。
ただ、知り合いがいなかった。
心配して、見かねた前述のT女史が、渋谷に小さなマネージメント事務所を構えているAさんを紹介してくれることになった。なんでも旧知の間柄で、会ってみたらと紹介してくれたのである。
そんなふうにして、Aさんにマネージャーをお願いすることにしたのは、辞めるほんの少し前のことだった。
そのちょっと前にさる高名なCMディレクターの方に、(その方の作風をとても尊敬していた)ご挨拶した時、やはり、行き先を心配してくださり、自分の事務所で預かろうかと、ありがたい言葉をかけていただいたのも懐かしい思い出だ。
Aさんにお願いすることになりました、と後日報告に伺うと「Aさんなら問題ない。いい人が見つかってよかった」と喜んでくださり、生牡蠣とウイスキーをご馳走になった。
お元気にしているだろうか。不義理ばかりしている。
そのうち、脚本家が変わるという話を耳にした。
「どうしてですか?」と監督に尋ねると、「あいつ、天安門が書けねえんだ」とめんどくさそうに言った。
天安門事件について、どう書くか、描くか、は映画の重要な眼差しになる。そして、検閲が入るかもしれない脚本、彼の国で生きなければいけない彼女にとって、他国の映画監督に、天安門のリアルを書いて渡すのは想像以上に難しいことなのかもしれない。しかし、それが書けないのなら、彼女が書く意味もないのかもしれない。いくつかの、……かもしれないが、頭に浮かんだ。
一緒に朝粥を啜った時の、彼女の横顔を思い出した。
僕は、少し残念だった。
いずれにしても、監督は『逃TAO』を撮りたいと思う気持ちは変わらなかったはずだ。
僕も実現を信じて疑わなかった。
僕は、その冬、会社を辞めた。
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