戦国史上、最も失敗し、挽回した男
このタイトルは、仙石秀久という戦国時代の武将のキャッチコピーです。
週間ヤングマガジンで連載中の「センゴク」(宮下英樹先生著)という漫画の主人公であり、実在の武将です。
ここ何回か、「挑戦」をテーマに書いていたので、「挑戦」というテーマに最も近い戦国武将である仙石秀久を紹介します。
▼ 仙石秀久とは
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名(だいみょう)で、江戸時代において信濃小諸藩の初代藩主となりました。(殖産興業政策として、そばを流行らそうとして、現代に伝わる小諸そばの原型を作り上げました。)
豊臣秀吉の最古参の家臣の1人(つまりは織田信長の家臣でもありました)で、家臣団では最も早い 1583年、本能寺の変後に大名に出世しました。しかしその後、1586年の九州征伐において、島津家久との戸次川の戦いで大敗し改易されますが、1590年の小田原征伐の活躍により許されて大名復帰しました。
▼ 挑戦するから失敗する
織田信長や豊臣秀吉といえば、身分によらず下剋上を是とした組織で、「保守的な政策、安定志向な政策」より「挑戦すること」を奨励した組織と言われています。それを証明するように、石山本願寺攻めに10年という歳月をかけた佐久間信盛は、当時織田信長の重臣であるにも関わらず、織田信長からは「保守的で満足のいかない功績」ということで追放されました。(『信長公記』に『佐久間信盛折檻状』というものが残されています)
仙石秀久は、挑戦志向の武将であったがゆえに、島津家久との戸次川の戦いでの大敗という失敗を犯したとも言えます。
挑戦には、失敗がつきものなのです。
▼ 汚名返上 & 名誉挽回
仙石秀久は、豊臣秀吉により、大名として当時統治をしていた讃岐国を召し上げられ(改易)、高野山追放の処分を受けました。仙石秀久のすごいところは、今まで持っていたものをすべて失ったとて、諦めずに活躍のチャンスを待ち望み、再度挑戦して、結果として小田原征伐において活躍し、大名として復帰したところです。
仙石秀久のように、改易処分を受けた豊臣秀吉古参の大名に、神子田正治と尾藤知宣という武将もいました。2人とも、元々は黄母衣衆(きぼろしゅう)と呼ばれた、豊臣秀吉自身がまだまだ織田信長の一武将時代(木下秀吉時代)からの親衛隊出身です。
神子田正治は自身の失敗に対して言い訳をしたと見做され、尾藤知宣は戦において慎重消極策を取ったため、それぞれ豊臣秀吉から改易処分を受けました。しかし、彼らは元々親衛隊出身で距離感が近かったためか、挑戦もせずにただ哀願し、赦しを請うたため、却って秀吉の怒りを買い斬首されてしまいました。
何かを手に入れたとしても、失うことを恐れずに挑戦をし続けて、
もしすべてを失ったとしても、またゼロから新たに挑戦する。
仙石秀久の生き方から、「挑戦」の尊さを学ばされます。