革新的なことをすると嫌われる
現状維持や保守的な発想では、革新的なものに敗れて滅びうると記載しました。他の歴史を顧みても、革新的なものに敗れ去る例はごまんとあります。
しかし、ただ革新的であれば良いのでしょうか?
「革新的なことをすると理解の無い周囲からは嫌われる」という事実があります。
戦国時代において、サムネイル画像の武田勝頼がその例です。武田勝頼は、有名な武田信玄の息子で、武田信玄の跡を継いで武田家当主となった者です。
▼ 長篠の戦い敗戦後
武田勝頼は、長篠の戦いにおいて、織田信長に敗れました。しかし、その後は甲斐、信濃、上野、駿河、遠江、三河、美濃、飛騨と、領土は拡張していました。
織田信長は、長篠の戦い後に上杉謙信と手取り川にて戦い、1582年時点では徳川家康、北条家とは同盟関係にありつつも、上杉家と武田家とは敵対関係にありました。
この時点で、武田家も織田家程ではないにしろ、領土の大きさという面だけで見れば大きく差があったわけではありません。
▼ 革新的な拠点変更
しかし、織田家と武田家の決定的な大きな差は、経済力の差でした。
織田軍が経済圏を拡大させ強国となっていくことに合わせて、武田勝頼も負けじと、陸路水路の流通が良いと思われる韮崎に拠点を移そうとしていました。
新たな韮崎の拠点は、新府城と呼ばれて、真田昌幸が考案したものと考えられています。
※ 今回の話とは関係ありませんが、真田昌幸は、真田信繁(幸村で有名)の父親で、関ヶ原の戦い等でも徳川家康をおおいに苦しめた智将と呼ばれています。
▼ 保守的な身内からの内部崩壊
真田昌幸、武田勝頼は、商業中心の国造りに変えようとしていましたが、保守的な武田家の旧臣はそれに伴う重税や既得権益が剥がされることを恐れて、木曽義昌、穴山信君などが相次いで離反し、織田信長側につきました。
組織は内部から崩れると言いますが、まさにそれを具現化していて、身内が相次いだ離反し、時を同じくして織田信長軍(総大将は嫡男の織田信忠)が攻めた結果、武田家は滅ぼされてしまいました。
武田勝頼の失敗は、革新的なことを行う際に、ビジョンを伝えきることができず、仲間に理解者が得られなかったことです。