見出し画像

愛について語る

アリストテレスの「ニコマコス倫理学」と鈴木大拙の「禅の思想」。
西洋には神がいて愛があるが、東洋にはたくさんの神がいて愛欲がある。
神の愛を最高善とする西洋と、愛欲を手放すことを最高善とする東洋思想がある。

言葉はとても窮屈であり、「愛」という形にすることで、意味が殆ど受け手側の経験に基づく概念に則する。

そしてその神的な領域について「解った」と答えることはタブーに感じることがある。だから、「神秘」として言葉にしない方が賢明に見える。

本当は目の前にあるし、誰もが体験してきたことだけれど、それが見失われており、気が付かない状態から、言葉を使い「理論的」に体系的に説明しようとすると、権威のあるものの声しか聞かない。という場面に出会う。

まさにそれをアリストテレスでも鈴木大拙が憂いている。

面白いもので、「お前に分ってたまるか」と言われたことがある。
仕方がないから、「難しいですね」と言ってみる。

体験したことを言語化したところで、受け手が体験するわけではない。

言葉にすると、本当の意味の1000分の1、100万分の1しか伝えたかったことは伝わらないのも本当のことなのだろう。

「神の愛」ということを説明しようとするだけで、何十億の文字が必要になるかもしれないし、通じ合える人には4文字熟語だけで十分かもしれない。

神は人ではない。

人間と動物を比較するときに、人間には「高次な認知力と意識が存在する」説明される。ならば、神と人間が同じかといったら、絶対に違う。

「大は小を兼ねる」というのが、母の好きな言葉だったが、神は大ではり人間は小なだけだ。

全ては同じエネルギー体であり、肉体に宿ったエネルギーと肉体という限界の中だからこそ機能する「時間や記憶・想像・予知」の認知が可能になる。

人間だから「解りあえないもどかしさ」を感じることができる。
仏陀のいう四苦八苦「生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦」に苦しむ。喜怒哀楽。それこそが人間の人間たる本質であり、生きる者として、繁殖の機能はもつ。

愛は喜怒哀楽の原因なのだ。

人間の愛と神の愛は異なる。
神は愛であるが、人間の愛ではない。

全てに普遍的に存在するモノが愛であり、常にカオスである。
神は喜怒哀楽を感じることはないが、神の肉体でもある人間は喜怒哀楽を感じているが、神が喜怒哀楽なのか?

神は神であって人間の意識ではない。

人間の意識は神の意識ではない。

同じようで同じではない。
そして同じでないようで同じ、としか言いようがない。

光は慈悲慈愛かと言えばそうかもしれない。

太陽の光は愛なのか?神なのか?

太陽の光はどちらでもない

でもその働きは愛である。


私が愛を知っていたとしても
私に愛を教えてくれという人はいない。
私が知っている愛は神の愛ではないと思っているのだう。
神の愛を知らない人が私の知っている愛が神の愛でないことが判るのか?

愛は言葉では伝わらないのか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?