源さんの誠実さの「不思議」。
編曲も自らで行うシンガーソングライターであり、小劇場の舞台からキャリアをスタートして今や主演映画が数々の賞を受賞するなど演技力も高く評価される俳優であり、単著のみならず対談集なども含めて刊行された本はいずれも数十万部の大ヒットという文筆家でもある。
多彩な才能を発揮する星野源の、それぞれの作品のファンだという人は老若男女問わず日本国内外問わず、もの凄い人数にのぼるだろう。
そして、それらの作品をきっかけに星野源の人柄に魅了され、彼の活動はすべて追い続けたいと思っている熱心なファンの数も増加する一方だ。
私生活でのおめでたい報告も、数々の著名人や大勢のファンから祝福され、その話題が主要ニュースになり続けるなど、知名度もさらに上がって今や押しも押されぬ国民的大スターだ。
それでもファンからは「源さん」「源ちゃん」と親しみを込めて呼ばれ、くだらない下ネタも源さんなら笑って喜んでくれると気軽にメールを投稿してくるリスナーを多く抱える深夜ラジオ番組のパーソナリティーとして、決して手の届かない遠い存在にはならない。
こんなにパーフェクトなエンターテイナーがいるだろうか。
私個人も、もちろん彼の音楽作品を日々愛聴し、出演したドラマや映画はなんども観返し、本も全部読み、毎週かかさずラジオを聴いている。
ここまでメジャーな存在になった源さんの音楽について、映画について、いかに素晴らしいことかを熱く語るなどということは、本来ならば少し気恥ずかしい思いがするものだ。
特に「世間一般ではまだそんなに知られてないけれど、ちょっとマニアックなものを好んでるんだよねえ。」という態度を取りたがりの、自意識過剰のサブカルこじらせ中年としては、「ブレイクするまでの活動は追っていたけど、最近はすっかり聞かなくなったし観なくなったなあ。」という経緯を辿りがちなんだが。
源さんに関しては、出すアルバムが毎回過去最高傑作だし、新曲を初めて聴くたびに「うわ、こうきたか!」と驚き、出演作品の情報が出るたびに「へえ、その作品(番組)は知らなかったけど、興味あるのでぜひ観たい!」となるし、ライブツアーやメディア露出などの計画を知らされるたびに「いや、どこまでサーヴィス精神旺盛なのよ、この人は。」と感心を通り越して畏怖の念すら抱くようになっている。
つまり、星野源という表現者のことを全面的に信頼しているのである。
なぜにそこまでの信頼を寄せているのかというと、「星野源ほど誠実に表現活動に向き合っている人はいない。」と実感しているからだ。
おそらく源さんは「自分が天才ではない。」ということを自覚し(これだけの才能を発揮して、我々から見たら充分天才なんだけれども)、もっと歌もギターも上手くなりたいし、名曲をどんどん作りたいと日々努力されていることだろう。
大病に倒れ、生死の境を彷徨いながら復活した経験があるので、文字通り「命を削って」音楽を作っているという説得力の強さももちろんある。
しかし、ストイックなだけではなく、みんなを楽しませるためには遊び心を失ってはならないから、「まずは自分が一番面白いと思うことを最優先する。」そのことを徹底的に追求してもいる。
等身大の自分を素直に晒す勇気を持ち、「自分の責任で引き受けた仕事では絶対にみんなを失望させない。」という強い意志を持ち続けている。
有名になった自分の影響力の大きさも理解し、どういう立ち位置でどういう発言をするのが最も良いのかということに気を配り、媒体との距離感を絶妙な塩梅に保っている。
やっぱり誠実だよなあ、と思うしかないのである。
まもなくリリースされる「不思議/創造」のシングル盤。
どちらの曲も凄まじい完成度だ。
「創造」については、任天堂のCM曲ということで、本人のゲーム愛も込められた多数のオマージュが散りばめられているし、「現代の日本のポップ・ミュージックでは1曲の中に何曲ぶんのアイディアを盛り込まないとヒットしない。」という風潮もある中で、この曲にはいったい何十曲ぶんのアイディアとマテリアルが詰め込まれているのかと気が遠くなるほどの密度だと思う。
「不思議」は、コロナ禍で在宅時間が長くなったことを逆に利点と捉え、DTMを学んで一人の手で曲を完成させるということにチャレンジしている一環の中で生まれた曲で、一聴するとシンプルなラブソングだ。
しかし、コードの複雑な響きや度々の転調が印象的で、「自宅でさっと作りました。」という曲でないのは明らかだ。歌唱も「普通の声でソウルミュージック的にアプローチする」という源さんのあらゆるヴォーカル技術が駆使されている。
もしこの曲が数年前に発表されていたら、「メロディが覚えにくい」ということで大々的にヒットはしなかったかもしれない。私個人の屁理屈になってしまうが、藤井風くんという天才の出現、彼の曲がヒットして広く浸透したことによって、日本のポップ・ミュージックの水準がさらに数段階上がり、一般リスナーの耳がかなり超えてしまった。それを踏まえてのタイミングで出してきたところにも、この曲の凄さがあると思う。
「ばかのうた」でデビューした時は、ギターの弾き語りが中心の楽曲が多くて、そこからより多くの支持を集めるにつれて、音楽制作に注げるパワーも大きくなり(端的に言うと、売れれば売れるほど予算が増えて、好きなミュージシャンも起用できるようになり、使える機材もより高価になり、制限を感じなくて済む)、本来やりたかったブラック・ミュージックへの接近が顕著になり、楽曲はスケール感を増していったので、源さんの音楽的技術の向上と取り巻く環境の変化が影響を及ぼしたうえでのディスコグラフィーの変遷だと思われがちだ。それは実際そうだと思う。
しかし私が思うには、こと作曲に関しては「不思議」のような曲は、これまでも「作ろうと思えば作れた」んだと思う。
この曲をどういうタイミングで、どういう形でリリースすれば、より多くの人に聞いてもらえるのか、ということを考え抜いているところに、源さんの誠実さがある。
すでに配信ではリリースされている曲を、あらためて盤として手に取ってもらいたいから、ファンブック購入&サイト登録者限定の配信イベントを映像作品として仕上げて、そのDVD or ブルーレイを特典として付ける。副音声などのおまけも盛りだくさんで、とにかく価格以上のサーヴィスを提供するというこの姿勢。
「ちょっと源さん、やりすぎじゃない?」とファンは嬉しい悲鳴なのである。
この源さんの「誠実さ」。何も私は「星野源という人は謙虚で努力家で奉仕精神のある素晴らしい人格者だ。」ということが言いたいわけではない。
あれだけ音楽についてこだわりの強い人だ。妥協も一切許さず、楽曲の完成まで全精力を注ぐだろう。つまり、アーティスト・エゴは途方もなく巨大なはずだ。
やりたいようにやっていいと言われたら、どんな犠牲を払ってでも自分の理想とする表現に向かっていくだろう。
そういう人がなぜここまでのバランスを保ちながら活動を続けていけるのか。周囲の環境が整うのを待たなくてはならない時もある。リスナーなど受け手に望まれていない状況かもしれないというリスクもある。かなりのストレスもあるはずだ。
最大の理由は、源さんが「ひとりよがりの表現」を嫌っているから…そのことに尽きるのではないか。
「自己満足に浸っている奴」「自分に酔っているだけの奴」になりたくないという、激しい嫌悪の感情があると思う。
そこには「何もできずにいたかつての自分」に対する怒りも含まれているかもしれない。
もちろん「今こうして大勢の支持を得て、自分の好きなことを追求させてもらえるという有り難み」に対する圧倒的な感謝の念は大きいだろう。だが、同時に(これは想像で、源さんが他人をどれだけ意識しているかはわからないが)、だからこそ「そこそこのことをやって、過大評価されたらそれに甘んじて、有名人であることの特権にありついている連中」のことを、心底「ダセエ!」と思っているのではないだろうか。
だから逆に、源さんは「とてつもなく自己愛が強い人」だとも言える。
「自分への期待が大きい」からこそ、絶望する。
創作に挑む時は、誰しもが自分と向き合う作業から逃れられない。真剣に取り組めば取り組むほど、自分の無力さを知り、絶望も深い。孤独な時間は永遠のように感じるだろう。
誰よりも孤独と絶望に向き合ってきた源さんは、きっと今同じような絶望を感じているであろう人のことを思い、その人に届く音楽を作りたいと考えている。いや、自分の作った音楽が、そういう人に届かないのであれば、何の意味も無いとすら思っているかもしれない。
それはやはりちょっと狂気じみているのだ。
あのニコニコした笑顔の下に、とんでもない野望と復讐心を抱えて、華やかなステージに立つ。だが、ステージを降りて独りになれば、また葛藤でのたうち回る毎日だ。(明るく美しい伴侶を得て、これまでよりはだいぶ安らぐ時間が増えるのだろう。とても喜ばしい。)
根拠のない自信を持てる尊大な人がちょっと羨ましい、権力や金の力で人の上に立とうとする強欲な人が憎たらしい、他人が不幸になろうが自分さえ良ければいいと考える傲慢な人が恐ろしい…そんな中で自己肯定感を持てずにいる私たちの、まるで身代わりのように戦ってくれてボロボロになった中で紡ぎ出してきたメロディや言葉を、どうして愛さずにいられようか。
そういう表現者と同時代に生きれているのは喜びであるし、源さんの「誠実さ」が大勢の人に支持されているということで、世界はまだ捨てたもんじゃないと思えるのである。
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