Self-Reference短歌2

愛し君いたるところに書き置きを残しておくから探さないでね

 円城塔さんの連作短編集『Self-Reference ENGINE』に登場する巨大知性体(スーパーコンピューターの超進化形みたいなもの)をテーマに詠んだ短歌のひとつ。これは『Japanese』に登場する巨大知性体ナガスネヒコのイメージ。

 人類が死に絶えた旧日本諸島の調査に従事していた一団が日本文字と呼ばれる文字からなる解読困難な文書を発見したことから現在まで続く日本文字の研究について解説する体を取っている短編で、読者が今まで読んでいた文章こそが、第一次調査団が持ち帰った最初の日本文書であるということが明かされるとてもボルヘス的で好きな手法。
 日本文字の解読が至難を極めているのは、文章の中に同じ文字が登場する回数が非常に少ないという現実的な問題に加え、調査団が旧日本諸島へ調査に入る度に発見される日本文書は指数関数的に増えていき、新たな日本文字の発見がそれまでの説を根底から覆していくからでもあります。
 こうも後出し後出しで情報が出てくると巨大知性体たちも何か不審に思うところがあり、これはかつて日本諸島に存在しある日突然消失した高性能な巨大知性体ナガスネヒコの仕業ではないかという説が浮上します。

 ナガスネヒコがなぜ消失したのかについては分かっていないのですが、作中ではナガスネヒコが時間の流れに身を置くことをやめてどこか時間の一点に留まることを選んだからという推論が提示されています。人間の、そして恐らく巨大知性体にとっても抜きがたい常に流れて行く時間の概念の外へ出てしまったので観測できなくなってしまったと。
 巨大知性体たちにとってナガスネヒコのような隠れ巨大知性体は時空再統合計画の不確定要素となるため捜索・討伐の対象になっていて、そんなかつての同族たちをナガスネヒコがおちょくっていると思われているわけですが、真偽のほどは定かではありません。

 ナガスネヒコの歌を詠むにあたってあれこれ考え、個人的には日本文字とは自分が消えた後も自分を探し続ける巨大知性体たちへのメッセージなのではないかと思い、冒頭の歌になりました。わざわざ人と巨大知性体たちの前から消えたのにこんな形で関わり続けるのは、おちょくっているのではなくもっと親しみを込めた、もうかつてのようには関われないけれど自分を探しに来たひとたちへのメッセージを残しているように感じていまして。

 それは「誰かを遺して行かざるを得ない者が遺して行く者に対して何を思うか」ということに限りなく近いというのが私の直感です。共有した時間や空間、記憶、身に付いたくせや習慣など、至るところに解読できない文字のように自分というものが残っているのだから、もう探さなくていいのだと言ってあげることが、遺していく者にできることなのではないかと思います。

 この歌を詠んでいた年にふた月連続でおばを亡くして私だけでなく家族みんなが精神的にガタガタだったんですが、その中でこんな歌も詠んでいて、私なりに気持ちに整理を付けていたのかもしれません。そういう意味で、この時でなければ『Japanese』やナガスネヒコをこういう風に解釈することはなかったんでしょうね。

完了にならない予定もできたけど翌日あすはあるのだ生にも死にも

お題『翌』

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