普通である自分を受け入れるということ
最近まで強烈な劣等感に襲われて、苦しくなることがありました。
今は、そういう機会は減ってきたのですが、それは「嫌われる勇気」という本に書いてあった
「普通である自分を受け入れる」
この言葉を自分なりに解釈してからでした。
その解釈というのは「自分の価値観を壊すこと」。
それがどう効果があったのかを書いていきたいと思います。
自分が特別であると思うこと
自分が受けてきた教育というのは常に競争を求められていました。
1番わかりやすいのが「学力」
特に、小学校、中学校、高等学校と年齢が上がっていくとよりその色は強くなっていきます。
「勉強が全てではない」という言葉の裏には、「何かに秀でていたらいい」という言葉が隠されていたと思います。
学力を担保できない人は、別の能力で特徴を出さないと認められないのです。スポーツができる、友達が多い、少し変わっている、面白い、などなど
常に何か自分の中にある特別感を探すように求められることはとても苦しいことで、自分も含めて周りも過酷な環境の中で生きてきていると思います。
その環境は常に自分の中に特別な何かを見つけないといけない呪いをかけられているようでした。
特別を探し出し続けることの問題点
「嫌われる勇気」を読んでいると以下のように書かれていました。
本来、勉強であれスポーツであれ、なにかしらの結果を残すためには、一定の努力が必要なります。ところが、「特別に悪くあろう」とする子ども、すなわち問題行動に走る子どもたちは、そうした健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとしています。アドラー心理学では、これを「安直な優越性の追求」と呼びます。
引用:嫌われる勇気 著 岸田一郎ら
よくわかるのですが、目立とうとして悪い方向に行ってしまうことは多くの方が経験しているのではないでしょうか。
悪目立ちという言葉もありますが、誰も見てくれないのであれば悪い言動によって自分を保つしかないのです。
自分の存在が認められないというのは「死」と同一だと自分は考えています。死を避けるためだったら、人はなんでもするのではないでしょうか。
死の恐怖というのはなかなか抗うことは難しいものです。
自分の価値観を壊すこと
今までは「特別ではない自分を受け入れる」と考えていましたが、いまは言葉通り「普通である自分を受け入れる」ということだと考えています。
それはどういうことか
自分は自分の価値基準を疑うことが始まりだと考えています。特別、特別ではないというのはあくまでも自分の価値基準で決めていることになります。
例えば、お金を持っている、顔がいい、背が高い、勉強ができる、仕事が早いなどの基準はあくまでも自分や他者の主観でしかないということです。
そして、その価値は変動しやすいこと。
何がいいかなんてよくわからなくなるのです。
自分を受け入れる
価値を疑うととても不安になります。自分が今まで信じていたこと、自分を保っていた柱がなくなってしまうんです。
とてもそれは怖いことで自分は自分がよくわからなくなりました。
その一方で、面白かったのが自分のプラス面、マイナス面も分からなくなったことです。自分にプラス面もマイナス面もない、ただそこに存在するだけと考えられたのは大きな発見でした。
つまり、価値観もないので他人と自分を比較する必要がなく、劣等感というものなくなってきたのです。
ただ、そこに自分が存在しているという事実のみが残りました。
自分が楽しいことを追求する
その事実が残った時にも、自分が心を動かされることがありました。
自分の場合は、自分が関わった人が元気になっていったこと。それを見ているだけでもとても嬉しかったのを覚えています。
人からの感謝・注目ではなく、単純に自分が嬉しいこと・したいことをする
ということに気づいてから、自分を受け入れることが初めてできたと思います。
アドラー心理学の解釈は、「嫌われる勇気」だけでは難しかったので、自分は「性格は変えられる」を読んでから少し楽になりました。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
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