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私が料理することにこだわった、もうひとつの理由。

義両親との完全同居の身となる結婚は、料理未経験のわたしが、台所に立つきっかけになったことは、前に記事にかいた。

最初は、義務感から。そして子供が産まれてからは、美味しいものを食べてほしいという愛情から。

自然と、買い物のときもそうだし、料理をするときもそうだった。

子供たちの喜ぶ顔を思い浮かべながら料理をしている自分に、気付いて幸せだった。

だけど、子供たちが小学生も終わるころに、ふと気付いた。
それまで、料理をすることに慣れるのに一生懸命で、何とも思っていなかったけど、その当時、ちょっと余裕ができた。

実母の料理する姿が、思い浮かばなかった。

思い出そうとおもっても、思い出せなかった。


そりゃ、そうだ。


わたしがちょうど、当時の子供たちと同じ年のころから、母は食事を作らなくなった。

正しく言えば、作れなくなった。

いま思えば、更年期やら鬱やら(病院嫌いで、本人申告)で、相当身体がきつかったのだろうことは、想像できるけど、どちらかというと「鈍ら」で「母としてすべきことをしてこなかった人」。


私の頭の中で、そのとき「料理をしてこなかった人」と位置付けられた。

別にわたしが代わりに料理をして、食事を用意したわけではない。
その辺のもので適当に食べたり、弁当屋へ買いにいった覚えしかない。
高校を卒業すると、自分のアルバイト代で、適当に買ってたべた。

不便を感じなかったので、その当時は何とも思っていなかった。


わたしは、子供の脳裏に「料理をしなかった人」として、位置づけられたくなかった。

途中から、その思いもあって躍起になっていたのかもしれない。


料理のこと以外にも、育児に関して、親のことを反面教師にすることを、意識することは多かった。


いまも疎遠の母への、反抗心もあった。


私はそうにはならない・・・と。


子供たちが中学生のころまでは、朝食もかならず丁寧につくった。

私の「丁寧」のレベルは、パン一枚ではなく、ご飯食におかずとヨーグルトをつける程度だけど。

パン一枚だと、4時間目はお腹がすいて、授業を受けるどころではなかった。
お昼前に、お腹が空いて集中がきれたから、成績も思わしくなかったのではなかろうかと、ワケの分からない疑心がわいたから、子供たちには腹持ちのよいものを用意しようと決めた。

腹持ちがよかったら、チョットは授業に集中してくれるかなと、淡い期待もよせて。


子供たちの脳裏に、どう私の母親像が焼き付いたか分からない。

息子にとっては、わたしは「うるさい母」らしい。

夫は娘に対しては心配のあまり、アレコレいうけれど、息子には甘い。
(そのクセして、裏では、頼りないだの何だのと言うクセに)

だけども、息子にも娘にも、親の価値観をそのまま押し付けるような、自分がされて嫌だったことはしてこなかったつもり。

伝えたり言い聞かせることも、だいぶユルくしたつもり。
言葉も選んで伝えた。

それを物語るように、子供たちはのびのびと、親の欲目かもしれないけど、良い意味で自由奔放に育ってくれたと思う。


自信のなさから、ついつい「つもり」になっちゃうけど、せめて、料理をしていた私が記憶に刻まれたらいいなと思う。


息子には、今も夕食は用意するしね・・・。


だけども・・・。


料理をすることについての、意味合いやこだわり、私の経歴を、前の記事を含めて、今までの過程を書いているうち、思い出した。


あれは、小学校低学年の頃のこと。


テーブルを囲む、弟、妹、わたし。

「このコロッケの具、なにが入ってると思う?」

「玉ねぎ!」「人参!」「グリーンピース!」

思いおもいの具を、発する私たち。

コロッケの具を、私たちの前でこねて、衣をつけていく、優しい表情の母。


出来あがった、たくさんの俵型のコロッケは、瞬く間になくなった。


とにかく具沢さんで、塩加減もちょうどよくて美味しかった。


わたしは、手作りのコロッケを揚げたことがない。


最近、あのときのことをよく思い出す。


それに、新たに思い出したこと。

高校3年間は、ちゃんとお弁当を作ってくれた。

そうだった。
何もしてくれなかったこともなかったんだ。

高校になって、弁当が必要になった。
母は毎日弁当を、持たせてくれた。

時代のこともあるのかもしれないけど、冷凍食品はほとんど入っていなかった。

OLのときに、私の手作り弁当を見て、同期の子が「わぁっ!色とりどりで美味しそう!」って言ってもらえたのは、母の弁当を食べてきたからかもしれない。

子供たちの弁当に、手作りのモノを一品添えることと、色合いにこだわったのもそのせいなのかな。


あと、私の中で、もうひとり「料理をしてこなかった人」と位置付けている義母。

年がとしだから仕方ないけど、畑仕事を引退したら、「今度はわたしが食事の用意をするわね」と言ってくれるものだと期待していたけど、それはなかった。

自分たちの分だけでも、用意してくれるだけ、ましだけど。

もちろん、全く料理をしないわけではない。

時々、煮物なんかがテーブルに「食べてね」ってな感じで、鍋ごと無造作に置いてあることがある。

この間作ってくれた、エンドウ豆とはちくと高野豆腐の煮物は美味しかった。

「義母さん、これ炊いてくれたやつ美味しかったわ。残りぜんぶもらうで」と無意識に言葉がでた。


ほんとうに無意識にでたので、自分でも驚いた。
私はそんなキャラではないし、めったに義母に喋りかけない。
美味しいと、無意識に言葉はでるのだろうか。


「あらそう?!よかったわ!残り少ないけど、食べてよ!」と、少しルンルン気分が、手に取るように分かる調子で返ってきた。


次の日、全く同じ煮物がテーブルにでた。

今度はものすごく辛かった。

夫によると、料理をしながら義母も分かっていたと言っていた。

そのままでは食べるきがしない私は少し悩んだが、鶏肉を加えて、たまご丼風にして食べた。


そんなことも、ずっと記憶に刷り込まれていくのかな・・・と、ふと思う。


息子も娘も、幼い頃から幾度か、義母の作ったものをたべた。


それは、ありがたいことなのかもしれない。

祖母の作る料理をたべる経験が、できたのだから。


同居しているからこそかもしれない。


そう考えると、躍起になって台所に立たなくても、その人その人の料理って、記憶に残るのかもしれない。

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