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共有するとか、しないとか|ウガンダ生活

10月下旬までアフリカ(ウガンダ)です🇺🇬

地方出張の帰り道、車で、畑やススキが両側に広がる赤土のまっすぐな道を走っていると、アチョリ(僕がいる地域の名前)語のコメディがラジオで流れた。一緒にいた同僚に翻訳してもらったら、こんな小噺だった。

登場人物:主人公の少年、その友人、友人の母親

友人の母親:「美味しいごはんを作るから、食べていかない?」
少年:「大丈夫です、お腹がいっぱいだもの」
友人の母親:「そんなこと言わずに、食べに来なよ」
少年(友人に耳打ち):「今日のごはんは何なの?」
友人(少年に囁く):「お肉だよ」
少年(嬉しそうに):「お肉だって!」
少年(友人の母親に、澄ました声で):「それではご馳走になります。でも、ぼくが食べたいんじゃなくて、招待してもらったから行くだけだからね」

同僚たち、爆笑。最初は「良い子」を装って食事を断る。しかし、あっさりお肉に釣られる。それでも、自分のためではなく、相手のために行くのだと言い張る主人公が可愛いのは分かる。
でも、正直ピンと来なかった。誘われたなら、澄ました真似をしなくても、素直にご馳走になればいいじゃないかと思ったからだ。


そう言うと、同僚(女性2名でふたりとも子供がいる)は「アチョリでは、子供が友だちの家でご飯を食べたりしないよ。子供の頃、親には『家以外でごはんを食べちゃダメ!』と口酸っぱく言われたもの」と口を揃えた。
それどころか「学校から帰るのが少しでも遅れたら『どこに何十分いたの? 何をしていたの?』と問い詰められた」そうだ。

厳しい! びっくりした。アチョリの人たちは日本人より大らかというか、物事を他人と共有する範囲が広いと感じていたから、意外だ。事務所ではボールペンも朝食もパソコンもみんなで共有しているし、よく「シェア」と言うので、友だちとも遊びに行ったりご飯を食べたりするものだと思っていた。

(これは前日ですが)虹が出ていました

「自分の子供にはどう教えてるの?」と聞いてみる。
「同じだよ。家以外でご飯を食べるのは禁止。友だちの家で遊ぶのも禁止。何が起きるか分からないし、一度許すと次はもっと遠くで遊ぶようになるからね。遊ぶならうちか学校で遊びなさいってこと」
 でも、子供は友だちと遊びたいのではないだろうか。
「僕が子供の頃は友だちの家に泊まりに行ったよ。ドーナツが朝ごはんに出てきてワクワクしたけど」
「それは日本の話じゃん。話が逸れるけど、私は親がご褒美を普段から子供に買ってあげないとダメだと思う。普段からアイスクリームを食べていれば、『アイスクリームがあるよ』と誘われても断れるでしょう。さっきのラジオの子は普段、肉を食べさせてもらっていないんだよ。だから、ホイホイ着いていく。あれは良くない教育だね」

 よく聞くと、彼女たちが心配しているのは、子供の安全だった。
「世の中、変な人がいるからね。近所に小さな商店があるんだけど、子供が店番の時を見計らって、勝手な値段でトマトや小魚を買い占めていく悪い大人がいる。腹を割って話せる人もいれば道で通り過ぎても挨拶するだけの人もいる。近所付き合いは簡単じゃない(It's not easy)」
 信頼できる相手は選べ、ということなのだろう。では、何か共有する時も、相手を選ぶのだろうか。信頼できる相手には共有できる、ということか。それとも信頼と共有は関係がない、まったく別のものなのだろうか。


 その前日のことだが、夕飯にポリッジ(おかゆ)を店で買った。僕が持ち帰りの容器がなくて困っていると、同僚の一人が水筒を貸してくれた。
「日本人は同僚(しかも異性)に水筒、貸さないよなあ」と思ったが、ありがたく拝借した。
 ポリッジは美味しかった。翌日、僕は水筒を洗って返した。「ありがとう」と言うと、同僚は笑っていた。
 年の半分をこのアチョリ地域で過ごし始めて丸三年が経つが、アチョリのことは分からなくなっていくような気もする。

(おわり)

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