キャラやバンドと歳をとってさ
せっかくアフリカにいるし、アフリカのことを書きたいけど、今週はちょっとしたトピックがあった。米澤穂信さんの小説「小市民シリーズ」が完結したのだ。文庫本で5作のミステリー物だが、一作目は2004年刊なので、かれこれ20年追いかけてきたことになる。
(アニメも気になる)
一作目が出た当時、僕は小学五年生だった。新聞の書評欄で見つけて、たしか将棋大会の日に、大雨の中、遠くの本屋で買って帰った。
それから二十年。僕は三十代になり、ウガンダで最後の作品を読み終えた。さびしさや満足感や切なさで寝るのを先延ばししている(9/15)。明日、月曜日なんだけどなあ・・・
でも、今は作品の感想よりも「キャラと生きていく」ということをぼんやり考えているのだった。
息の長いシリーズ物を好きになると、キャラと一緒に自分も歳をとる。年上だったキャラの年齢をいつの間にか追い越し、「*巻の時は大学受験だったなあ」と自分の来た道をなつかしく思い出したりする。
だから、完結は寂しい。もうあのキャラたちの物語に立ち会えないからだ。一緒に歩いてゆきたいのに、立ち止まって手を振られた気分になる。かといって完結せんとそれはそれでやきもきするので、ファンという生き物は本当に身勝手だ。
同じ心理はバンドにも当てはまる。キャラやバンドは作品という形で自分の存在を結晶できるから、心に定点として残るのだ。作品は年を取らない。そう言い切ってしまいたくなるが、きっと違うのだろう。同じ曲を何十年も歌い続けるバンドを聴いていると、曲そのものが年を重ねる様子を息遣いに感じ取ることもあるから。一方では、カラオケ(もう何年も行っていない)で「天体観測」を歌うと、一瞬であの頃に戻れる感じもする。僕らはいつも作品とそれを見つめる自分の距離をそろりそろりと測っているみたいだ。永遠と一瞬、これまでとこれから。
ところで最近、主催している読書会(5〜6人で二ヶ月に一回、小説を読んで感じたことを話し合う)から、ひとりの方が抜けた。色んな事情で本が読めなくなったそうだ。辞めるのは勇気が要るから、正直に話して下さってありがたかった。そのメールに別の方が「本は逃げません」と優しく返していたのが心に残っている。
それに一言付け加えるなら「待っていてくれるから」だと思う。作品は待っていてくれる。作品に出てくるキャラやそれを作ったバンドも同じだ。リアルタイムで追いかけてきたキャラやバンドは、完結しても解散しても、お別れではなく、待っていてくれる知音となる。離れても、迷っても、ページを開けば、イヤホンをつければ、いつでも会える。だから、ある意味では、見守ってもらっているのは、僕たちのほうなのではないだろうか。そんなことを思ったりもする。
(おわり)
P.S. ヘッダ画像はShakespeare and Companyというパリの有名な本屋の階段。ハーフェズという14世紀ペルシャの詩人の描いた詩の一節です。行ったのはかなり前になりますが、また行きたい。
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