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マクドナルドの優しい戦士
日本です🛩️急に寒くなりましたね。写真は先週行った青木野枝さんの展示。
2/17(月) 晴れ
モンゴル出張からの帰国翌日。荷解きをして、山盛りの洗濯を回した。美容室に行った。年賀状の遅すぎる返事を出し、家族にレターパックでお土産を送った。現金を米ドルに両替した。珈琲豆を買った。あとは病院と壊れたスーツケースの修理に行かなくては。
帰国翌日はいそがしい。雑事の片付けは日本の生活への復帰作業でもある。緩んだ感覚を日本向けに「調律」するのだ。帰国してすぐは財布を家に忘れたり行きつけの中華屋の引き戸を押し戸と間違えたりする。出発する前と帰ってきた後の自分に微妙なブレがあって一致しない。自分とその影の動きくらい微妙な差だけれど、ブレは確かにそこにある。
調律はそのブレを補正し、日本での生活をなめらかにする作業だ。家を出る時に財布が必要なことや扉は引き戸であることを思い出す。そう、思い出すという表現がぴったりである。記憶の井戸──それも頭の中ではなく、身体に染み付いている記憶──から、きらきら光る生活の破片を引っ張り出す。生活のブレが身体に残っているそれまでの間、ぼくの一部はまだ旅をしているのかもしれない。
2/19(水) 晴れ
一年ぶりに職場の近くのマクドナルドに行ったら、店内が改装されてセルフレジになっていた。繁華街とビジネス街の交点にある店で、急な階段を登った先に広めの二階席がある。以前の二階席は薄暗く、トイレは猫の額のように狭かった。
セルフレジになる前、二台の人力レジにいつも長い行列ができていた頃は、猛烈な勢いで客をさばくおばさんがレジにいた。
「戦士のおばさん」と勝手に呼んでいた。
おばさんは右手を上げ、よく通る声で「次の方どうぞ〜っ!」と呼ぶ。「ストローお付けしますか?」「ご注文以上でよろしいでしょうか」「番号札持ってお持ちください」とマニュアル通りの台詞を斬撃のようによどみなく繰り出す。
客であるぼくと会話しているというより、列全体が<客>という一匹のモンスターに見えているような接客の仕方だった。一秒でも早く目の前の<客>をさばくのだという迫力が敵に挑む戦士のようで、モンスターの一部として列に並んでいることが、少しだけ申し訳なかった。おばさんの態度は、ぼくらを待たせてはいけないという優しさから来ていると分かっていたからだ。
今思えば、人と話しているのに、自分がどんな人間かは問われない、その無関心な接客が心地いい人がいたと思う。店内はいつも混んでいた。何時間もスマホを眺めている人や一緒にいるのに会話しないカップルをよく見かけた。マクドナルドが好きなわけではないが、たまにこの店でプレミアムローストコーヒーを飲みたくなる時はあった。一人になりたいが、独りにはなりたくない夜などに。今より昔のほうが、そういう夜はあった。
あのおばさんはどうしたのだろう。
厨房をのぞき込む。あ、いた。新人に指示を出している。
なぜか、少しホッとした。
2/21(金) 晴れ
柴崎友香さん「百年と一日」を読んだ。三十四篇が収められた短編集。嘘、本当はもっと前に読んだが、感想を書くのが今日になったのだ。気乗りしなかった。文章は読みやすいし、一話五、六ページだが、読むのにも消化にも時間がかかる、そのくせ忘れがたい、ヘンな本だった。(いくつかの話が公式サイトで試し読みできるのでぜひ)
時制を示す単語がしつこく出てくるが、一つ一つ追っていると目眩がしてくる。
角のたばこ屋は、見事な藤に覆われていた。(…)
今は、木戸が閉まったままだが、いつかは開いていた。向かいにマンションが建った当時は、たばこの自動販売機が稼働していたし、その横の窓の奥に人がいた。
もっとずっと昔、周りにまだ畑がたくさん残っていて、隣の豆腐屋が朝暗いうちから豆を煮るにおいを漂わせていたころは、たばこ屋から娘が出てきて、小学校に通っていた。
全然分からない。「いつか」とはいつで「マンションに建った当時」と同じなのか違うのか。「もっとずっと昔」は何年前なのか。「まだ畑がたくさん残っていて」ということはもう畑はないらしい。そもそも「今」自体いつか曖昧だ。
でも情報は途切れ途切れに与えられるので、読者の脳内には、たばこ屋や豆腐屋が半透明な不確かさで浮かび上がる。ヘンな表現だが、優しい手で暴力的に扱われているようだ。撫でられると思ったら、引っ叩かれている感じ。その引っ叩かれた痛みさえ曖昧で、読むほどに迷子になる。話の一つに出てくる「横田」みたいに。
それから、自分はここにいるのが気楽だ、と横田は独り言のようにつぶやいた。昔からずっと、自分じゃない別の人になりたいと思っていた気がする、だから、記憶がなくなっていくのかもしれない。
皆さん、今週も健やかにお過ごしくださいね。
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(おわり)
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