ふたりぼっちの青春【映画「ルックバック」感想】
映画館に映画を見にいくのが、少し苦手だ。話しても、動いてもいけないと思って緊張するのかもしれない。行って後悔したことはないのに、自分のペースで読める本にばかり手が伸びてしまう。
でも、先日見に行った映画は本当に良くて、「早く見終わりたい」じゃなく「もっと見たかった」と思った。「チェンソーマン」の藤本タツキ原作・押山清高監督の「ルックバック」だ。
「ルックバック」は同級生の女の子二人が漫画を描き始める青春映画。皮肉屋で一途な藤野と抜群の画力を持つ引きこもりの京本。小学生で出会った二人の人生はやがて分岐し、ある事件が別の形に結び合わせる。noteでも色んな人が色んな感想を書いていて、楽しく読んだ。
青春映画と今書いたけど、僕は「青春」も苦手だ。映画館より苦手である。それは単純に思春期が後悔の連続だったからで、よくある青春物には共感よりも距離感を感じてしまう。そんな僕が本作を楽しめたのはなぜだろう、と考えてみた。
青春というものは二つのイメージでよく語られる。一つはキラキラしたかけがえのない明るいイメージ。もう一つは思春期の傷つきやすさや苦い体験に焦点を当てた少しブラックなイメージである。
二つは対照的だけれど、世界における自分の正しさを適切に測ることができないという原因は共通していると思う。小さなことで傷ついたり、物事の大切さが理解できなかったりする。他人の気持ちが分からなくて自分勝手な行動を取る。世界の前にまず自分があるから、感情の純度が高くなる。だから、あんなに嬉しいし、不安定なのだ。
本編には、藤野が京本に「藤野先生のファンです!」と言われた帰り道、嬉しくて畦道を雨の中で駆けていくシーンがある。藤野は帰宅すると、濡れ鼠のまま、小さな机に向かって、新しい漫画を描き始める。自分の作品が他者に届く喜び。煤けて見える田舎の風景さえもそのシーンではなぜか美しく見える。
それが本当に良くて、青春だ、とグッときた。藤野のあの距離に京本がいてくれたことにグッときたのかもしれない。あの距離というのは、傷ついて傷つけられる距離に、ということである。自分のことで目一杯な青春時代に、それほど近く他人がふたりぼっちでいてくれるのは、宝石みたいに貴重なことだから。
先週、久しぶりに会った高校時代の同級生何人かと飲みに行った。帰り道「高校生の頃はドライだと思っていたけど、人を大切にする人なんだね」と言われた。でもそれは彼が誤解していたのではなく、当時の僕は本当に色んなことが分かっていなかったのだ。教室の端っこから真ん中をちらちら眺めているような子供だった。人との関わり方が少しずつ見えてきたのは色んな人を傷つけた、つまり傷つけられる距離にいてくれる人が少しずつできた大学生の頃からである。
「ルックバック」を見て、当時の自分が感じていた、世界とどうつながっていけば分からないような、もどかしさをリアルに思い出した。藤野にとっても、京本と過ごした時間は、思い出というには鮮やかな、身近な記憶であり続ける気がする。
(おわり)
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