心の筋トレ 性格は変えられるのか、苦手なことは克服できるのか
よく人からは意外だね、と言われるのだが、小さい頃からいつも親の影に隠れているような引っ込み思案で、極度のあがり症だった。3歳の頃から突然気持ち悪くなって、よく吐いていた。「自家中毒」という病名で、別名は「周期性嘔吐症」。自立神経失調症から起きる病で、症状は小学校高学年まで続いた。遠足、運動会のようなビッグイベントの前日になると、体調が急に悪くなる。治療法は、4~5時間もかけてゆっくりと点滴を打つのみ。子供にとっては相当に辛い時間だった。もっとも、おかげで忍耐強さだけは培われたけれど。
そんな性格だったので、小さい頃から数々の失敗を繰り返してきたが、忘れられない思い出の一つが小学生の時のピアノの発表会だ。目をつむってても演奏できるくらい練習したにもかかわらず、緊張のあまり頭が真っ白になり、途中でつっかえてしまうと、まるで機械仕掛けの人形が電池切れになったかのように動けなくなってしまった。今でも穴があったら入りたい。
緊張を解くための方法に「目の前の人をカボチャと思え」というのがあるが、カボチャでもニンジンでもジャガイモでも玉ねぎでもなく、人は人にしか思えないのは私だけだろうか。
自分の性格が嫌で仕方なった私は、どうしても克服したくて、中学校に入ってからは、学級委員、ピアノの伴奏、合唱コンクールの指揮、スピーチコンテストなど、ありとあらゆることにチャレンジした。それをみた周りの人たちは、人前に立つのが平気な人間だと思うようになり、徐々に自分でもそう思い込むようになった。社会人になってからは結婚式で友人代表のスピーチを頼まれることも増えた。そして数年前までは仕事でも講演を頼まれたりしていたのである。
ところが、コロナ禍でそうした機会が急になくなってしまった。
そのまま一年、二年と日を送っていたのだが、昨年のことである。参加しているボランティア団体のグループの会長役が回ってきた。任期は1年間で、その大きな役割の一つがスピーチなのだ。途端にかつてのあがり症が戻っていることに気づいた。会長として挨拶する場面を想像するだけで足が震えた。
どうやら、生まれもった性格は、根本的には変えられない。とはいえ、仲間達に迷惑をかけてはいけないので、藁にもすがる思いで「スピーチが上手くなる単発講座」を受けてみた。
会場に着くと、目の前に水が半分入ったペットボトルとストローとが用意されていて、何をするのだろうと見ていたら、先生が、急にストローでブクブクと始めた。その後、先生が「これを実践することで、大きな声ではっきり発声できるようになり、スピーチが上手くなります!はい、実践してみましょう」
どうやら肺活量と腹筋を鍛えるための訓練らしい。私は、思わず吹き出しそうになった。こちらの問題は発声以前。
(そういうことじゃないんだよなあ・・・・・・)
やはり、そう簡単にスピーチが上手くなる筈がないのだ。
よくYouTubeなど、SNSで「英語が全く話せなった人が、動画を観るだけで1ヶ月でペラペラに話せるようになりました」とか「このジムにたった1ヶ月通っただけで〇〇kgも痩せした」といった宣伝が流れてくるが、そんなことは、ありえないと思ってしまう。
筋力だって1日では鍛えれない。しかも怠るとすぐに落ちてしまう。心だって、日々筋力を鍛えるように地道に継続的にトレーニングするしかないのだ。
幸い、この1年間で場数を踏んで、少しずつ慣れてきて、漸く人前でのスピーチも上手くなってきた。ちょうどそんな時に、一年の任期が終わってしまった。意識して努力をしないと、またすぐに元のに戻ってしまうだろう。
しかし、そもそも苦手なことを、克服する必要があるのだうか?ふと頭の中でアナ雪の「ありのままで」のフレーズが流れてきた。あがり症のままで、心配性のままで、スピーチが苦手のままでいいのではないか。色んな性格の人がいるからこの世の中は面白いのだ。もしも心臓に毛が生えているような人ばかりで溢れていたら、大変なことになるではないか。
苦手なことを克服しようとするのではなく持って生まれた性格を認め、受け入れて生きる方が今の時代に合っているのかもしれない。Z世代を見ていてつくづくそう思う。
年をとった人間の単なる開き直りなのかもしれないが(笑)、スピーチが苦手なら、手紙の形でメッセージを書いて渡すとか、一人一人としっかり話し合う場を設けるとか、話すのが得意な人に役割分担するとか、亀の甲より年の功。いろんな工夫で乗り切るという手もあるはずだ。
心の筋トレは楽しみながらほどほどに、人生の後半を日々楽しく生きれたら万々歳だ。