戦後イタリアの教育改革運動:ブルーノ・チアリの教育論と実践
レッジョ・エミリアの幼児教育について、レッジョの自治体立幼児教育施設群を運営する、いってみればレッジョの幼児教育のまとめ役のような法人組織、レッジョ・チルドレンの資料(主にイタリア語、SCUOLE E NIDI D’INFANZIA DEL COMUNE DI REGGIO EMILIA, NOTE STORICHE E INFORMAZIONI GENERALIなど)を漁っていくと、レッジョの教育に「ブルーノ・チアリ」(Bruno Ciari:以下チアリ)という人物が影響を与えたことが書かれていることに気づきます。
具体的にはレッジョ・エミリアの幼児教育の牽引者であったローリス・マラグッツィとチアリの交流と影響、ということになりますが、日本語で読める資料では彼がどのような人物なのか明らかなものが少ないので、拙いながらチアリについて調べてみました。
イタリア語版ウィキペディアによれば、チアリは、
「ブルーノ•チアリ(1923-1970)はイタリアの教育学者」「彼の教育は、ジョン・デューイ、セレスタン・フレイネ、アントニオ・グラムシ、マルクス主義の古典を読むことによって特に養われた。デューイの原点は学校と社会の密接な関係にある。チアリによれば、学習は個人的なもので知的プロセスではないが、より効果的でよりコミュニタリアン、社会的なものになり得る。
1961 年に出版された彼の基本的な著作の一つである「新しい教授法」で表現されているように、チアリは論理的推論と批判的推論の能力を使用する「技術」によって推論と批判への態度の形成を刺激するという初等学校教育の第一の目的を強調する必要性から出発している。また技術と方法の違いを強調し、後者はあまりにも構造化されており体系的に定義されていると考えていた。
これには、教育活動の中心にある主題である子どもを、その抽象性ではなく生き生きとした豊かな複雑さの中で社会的・家庭的経験に由来する複雑な人格として、また、客観的に捉えるのではなく、自らフィルタリングされた主観的に生きるものとして考える必要性があるという考察が含まれていた。だからこそメソッドではなく技術を使う必要がある。」
https://it.wikipedia.org/wiki/Bruno_Ciari
と解説されています。
またチアリは「教育協力運動(Movimento di Cooperazione Educativa:MCE)」という1950年代から広がった戦後イタリアの教育改革運動の中心人物の一人であったと説明があります。
「教育協力運動」については、幸い田辺敬子さんの労作によって日本語でも詳しい解説を参照することが出来ます(『田辺敬子の仕事 教育の主役は子どもたち』社会評論社、『世界教育史大系13 イタリア・スイス教育史』講談社、など)。
田辺さんの解説から、「教育協力運動」が第二次大戦中の反ファシズム抵抗運動と強く結びついていたこと、チアリもまた、イタリア国内のファシズム教育やナチスドイツの統制に対するレジスタンス運動に身を投じて武装闘争をしていたことがわかりました。
「教育協力運動」については、以下にも簡単にまとめています:
https://note.com/didattica_arte65/n/n615d25eef637
チアリの話からすこし逸れてしまいますが、ほとんどの日本人の認識ではイタリアはドイツともども第二次大戦における枢軸国として戦った国、と捉えられていますが、実際のところイタリア国内にはファシムズに賛成する世論と反対する世論が戦中に存在し、とくにフィレンツェ以北(チアリはフィレンツェ郊外の小さな町チェルタルドの出身)のイタリア各地で武装闘争によるレジスタンスが盛んだったようです。
なかでもレッジョ・エミリアは反ファシズム闘争で多くのレジスタンスの犠牲を生んだ街であり、戦後共和制国家となったイタリアの政府から表彰を受けています。
言ってみれば戦前戦中のイタリア社会と教育界に親ファシズムと反ファシズムの意見が並行して存在したということで、このあたりは日本の戦中の様相と同じ捉え方では理解しにくいのではないかと思います。
チアリに話を戻すと、彼はボローニャ(アペニン山脈を挟んでフィレンツェの北に位置する大きな町)で1966年から没年の1970年を過ごしています。
ボローニャで彼は初等教育と幼児教育に携わりながら「教育協力運動」の活動にも力を入れていたようですが、彼はフィレンツェで教育学を学び、1951年代に活動を開始した「教育協力運動」(厳密にはその前身にあたる活動にも)参加しており、すでにその時点で教師として教壇に立っていたようです。
チアリの代表的な著書として挙げられているのが1962年にフィレンツェで出版された『新しい教育方法(Le nuove tecniche didattiche)』です。
チアリの他に「教育協力運動」に関わる重要な人物としては、ジュゼッペ・タマニーニやマリオ・ローディが挙げられます。タマニーニについての日本語資料は寡聞にして触れる機会がありませんが、前述の田辺さんはマリオ・ローディと直接親交をむすんで、彼の著書『私たちの小さな世界の問題』(晶文社)を翻訳紹介しています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E2%80%95%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB-%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3/dp/479495994X
チアリの著書『新しい教育方法』は今のところイタリア語でしか読むことが出来ないようですが、その冒頭部分を以下に紹介してみます:
「第一章 ある必要性:子どもたちを知ること
教育学と教育の世界において、「子どもから始める」こと、子どもの基本的な欲求や興味、子どもの中で動く力に注目することの必要性は、誰もが認めているかのように見える。この要件は誰の目にも明らかであり、改めて強調するのは余計で退屈に思える。しかし実のところそれはそれほど明白ではない;このような場合、この同意は言葉の発音の中にあって信念の深さにはない。実のところ、残念ながら(私は一年生のクラスについて述べているが、この考察は当然その後のクラスにも当てはまる)我々は全く子どもから始めていないのだ。教師は、登校初日を前に、彼が勤勉であれなら、すでに自分自身の授業の全プログラムを準備していることだろう;彼は、それが世界的であるなしに関わらず、その言語を学ぶための「メソッド」を、そのすべての手順を含めて頭の中に持っている。彼は掛け図も用意し、もっと細かい資料が入ったカバンも持っていることだろう。子どもが教室に入った最初の瞬間から、多かれ少なかれ合理的な、そのメカニズムが起動する。これから私たちが見ていくように、どんなに良い場合であってもその子どもはすぐに「プロセス」の奴隷になってしまう;彼の本当の個性や人生の経験は外に置き去りにされ、そしておそらく、それはもしも最初に入らなければ二度と入ることはないだろう。
この実践で教師は、どんなイデオロギーで武装したとしても、それがたとえ最高の心理学の本で武装しても、すでにその勝負に負けているのだ;そして彼のそばにいる子どものことを何も知ることはできないだろう。確かに、彼は自分の基本的な生物学的欲求や、身体的・精神的発達の一般的なパターンについて知識を持っているかもしれない。しかし彼の生徒、つまり彼の共同体の一員となる子どもを図式的、抽象的に考えることはできない。彼は独自の歴史を持っていて、欲求や適性、興味、習慣、知識を持つ子どもであり、それは本能や生物学的要因によって与えられるものではなく(いわば「生まれつきに」)、長く豊かで激しい人生のプロセスの中で形成されるものなのだ。
良い教師は、科学的心理学の最新かつ最も信頼できる発見について、よく知っていなければならない。これは避けられない必然性だ;まさにこのような学習の中から、活動に必要な刺激や基本的な準備を見出すことができるだろう。しかし彼は、その分野の非・専門家ではあるものの、学校での仕事の中で自ら「心理学者」になる必要があるだろう;彼はすでに定義されて統合された子どもの人格の構造に注意する必要がある:一言で言えば、子どもが学校社会にもたらす計り知れない富すべてを歓迎しなければならず、そしてそれは表面的な付け焼き刃でも一夜漬けの学問でも、役に立たないガラクタでもなく、有機的で深い文化であり子どもの血と肉なのだ。
どのように子どもという複雑な現実を受け止めるか?教師は家族と接触して子どもが形成された物理的、社会的な環境を研究すべきかもしれない。しかしそれは教師の流儀ではない。子どもの現実は、抽象的に考えられた基本的欲求や能力の中にあるのでもなく、一方では、彼に作用した客観的な環境要因の中にあるものでもない。彼の成長のプロセスは相互作用の結果である;私たちは彼の「抽象的な欲求」ではなく、それが社会的に条件づけられ、方向づけられる方法に関心がある;私たちは社会環境そのものにではなく、それがどのように子どもによってフィルターにかけられ同化されるかに関心があるのだ。
子どもの個性を豊かで具体的に把握するために遠くへ行く必要はない。子どもにとって、学校は「生活の環境」であり、そこでは今までしてきたことを何も中断する必要はなく、刺激と示唆を与える教師の指導のもとで遊び、演じ、新しい多様な方法で自分を表現できれば十分なのだ。ただ「自らを開くこと」、「コミュニケーションをとること」を援助されるだけでよいのだ;その子どもが持っているすべてのもの、すべての経験が残らず出てくる。そこから、この表現する力の豊かさをどのように育み、促すかということが教育学的に問われる。 」
Capitolo 1 | Un'esigenza: conoscere il fanciullo
Tutti, nel mondo della pedagogia e della scuola, sembrano esser d'accordo sull'esigenza di "partire dal fanciullo", di prendere atto dei suoi bisogni di base e dei suoi interessi, delle forze che si muovono in lui. Questa esigenza è agli occhi di tutti così ovvia e scontata che appare superfluo e tedioso metterla di nuovo in evidenza. La cosa, invece, non è poi tanto ovvia; l'accordo è nell'enunciazione verbale e non nel profondo delle convinzioni. In verità, purtroppo (parlo per la prima classe e le mie considerazioni valgono naturalmente anche per le successive) non si parte affatto dal fanciullo; il maestro, in vista del primo giorno di scuola, ha già pronto, se è diligente, tutto un suo programma di esercitazioni; ha in testa il suo "metodo" per l'apprendimento della lingua, globale o no, con tutti i suoi passaggi; ha pronti i cartelloni, magari le bustine col materiale più minuto. Dal primo istante in cui il fanciullo varca la soglia dell'aula il meccanismo, più o meno razionale, si mette in moto. Come vedremo, anche nei casi migliori il ragazzo diventa subito schiavo del "procedimento"; la sua vera personalità, la sua esperienza di vita è rimasta fuori, e probabilmente, se non entra in principio nella scuola, non vi entrerà più.
In questa prassi il maestro, armato di qualsiasi ideologia, sia pure agguerrito dalle migliori letture di psicologia, ha già perduto in partenza la sua partita; e non potrà mai saper niente del fanciullo che gli sta accanto. Potrà, sì, aver nozioni circa i suoi bisogni biologici di base e circa lo schema generale del suo sviluppo fisico e psichico; ma il suo alunno, il bimbo che dovrebbe diventar membro della sua comunità, non può essere considerato in maniera schematica e astratta; esso è un ragazzo che ha una storia particolare, che ha esigenze, attitudini, interessi, abiti, conoscenze, non dati da istinti o fattori biologici (non dati, come si dice, "dalla natura"), ma formatisi in un lungo, ricchissimo e intenso processo di vita.
Il buon maestro deve mettersi al corrente delle ultime e più attendibili scoperte della psicologia scientifica; è questa una necessità imprescindibile; proprio in questi studi egli troverà lo stimolo e la preparazione basilare necessari per la sua opera. Ma egli, nel suo lavoro di scuola, dovrà farsi direttamente "psicologo", sia pure non specializzato e di un genere particolare; dovrà prender atto delle strutture della personalità del suo ragazzo, già definite e consolidate: dovrà, in una parola, accogliere tutta la ricchezza non misurabile che il fanciullo porta entro la comunità scolastica, e che non è verniciatura superficiale, imparaticcio che si dissolve in un dì, inutile ciarpame, ma cultura organica, profonda, sangue e carne del ragazzo.
Come prendere atto di questa realtà complessa che è il fanciullo? Il maestro dovrà prender contatto con le famiglie, studiare l'ambiente fisico e sociale in cui il ragazzo si è formato. Ma non è questa la via maestra. La realtà del fanciullo non risiede né nei suoi bisogni e nelle facoltà di base, astrattamente considerati, né, d' altro canto, nei fattori ambientali oggettivi che hanno agito su di lui. Il suo processo di crescita è frutto di un'interazione; non c'interessano i suoi "astratti bisogni", ma il modo con cui sono stati socialmente condizionati e diretti; non c'interessa l'ambiente sociale in sé, ma il modo in cui è stato filtrato e assimilato dal fanciullo.
Non c'è da andare lontano per cogliere la personalità del fanciullo, in tutta la sua ricchezza e concretezza. Basta che il ragazzo veda nella scuola il suo "ambiente di vita", in cui egli non deve interrompere niente di quel che faceva prima, ma in cui anzi egli può giocare, drammatizzare, esprimersi in forma nuova e varia, sotto la guida del maestro che stimola e suggerisce. Basta che egli sia aiutato ad "aprirsi", a comunicare; tutto quel che il fanciullo è, tutta la sua esperienza verrà fuori senza residui. Si tratta ora di vedere, sul piano didattico, come favorire e promuovere questa fecondità espressiva.
(Bruno Ciari, Le nuove tecniche didattiche Cap.1, 2012, Edizioni dell’ Asino)
チアリは、教師が(よかれと思いつつ)教育をメソッドとして標準化し、すべての子どもたちに適用しようとすることが子どもたちの育ちのタイミング、興味関心の芽生えを阻害し、学びに対する意欲を摘み取ってしまう危険について繰り返し強調し注意するよう呼びかけています。
引用部分に続く、実践の例(チアリは事例はあくまでも事例であって模倣的に適用するものではないことにも注意を促しています)では、チアリが受け持つ生徒達の学齢や集団としての個性、時々の興味をとらえながら柔軟に「遊びのような活動の中に生徒が学ぶべき教科内容を紛れ込ませていく」技術を紹介しています。
「あるタイミングで、教師がこんな質問をする:「このクラスには四つ足の子どもたちは何人いるかな?”」この質問は驚きと笑いを誘うことだろう。「なに言ってるの、四つ足で歩く子どもはいないよ!」
さて:このクラスの四つ足の子どもは、「空っぽの全体」を構成していることになる。この概念は非常に重要であり、数学においてゼロを正確に把握するために重要な反映となる。 」
チアリのテキストから感じられたのは、田辺さんによって紹介された前述のローディの著書に紹介されている教育実践同様、教師の子どもたちを尊重しながら巧みに生徒たちの興味に寄り添って教育内容を遊びに織り込む技の巧みさでした。
正直なところ、これほど巧みに日々の教育活動を展開するには、教師に相応の経験と広い興味・見識が求められることでしょう。
その意味では、チアリやローディの実践は経験の浅い教師にとっていささか敷居が高い、といえるかもしれません。
しかしチアリは別の章でこんな風に述べています:
「教育者の最初の努力は自分自身の欠点を自覚し、不屈の精神でこれと戦い、絶えず人間性を高めることでなければならない。最終的に、子どもたちの模範となる存在でなければならない。
はっきりさせておこう: 良い教師は「完璧」な必要はなく、劣等感に悩まされる必要もない; 教師が自分の欠点と闘い、それを少しずつでも解決しようとする姿勢が子どもたちに隠さずに伝わればよいのだ。誤魔化しで欠点を隠す者こそ災厄なのだ!教師は知らないことがあれば言い訳をせず、知らないことを素直に認めて子どもたちと一緒に研究しなければならない。うっかりした者はそれを認め、間違えた者はそれを子どもたちの前で素直に認めなければならない; これこそ教師が子どもたちに身につけさせることのできる最高の習慣なのだ。そのことが、完全なものが無償で与えられるものではなく、努力と苦労によって徐々に獲得されること; 自分を向上させる最善の方法は、自分にも他人にも誤りや欠点を告白すること; (教師も他人も)誰一人として絶対的な知恵の宝庫ではないことを理解させるのだ。」
Il suo primo sforzo dev'essere quello di prender coscienza dei propri difetti, di combatterli con intransigenza, di accrescere continuamente la propria umanità. In definitiva, egli deve costituire per i suoi ragazzi un degno modello.
Intendiamoci: non che un buon maestro debba essere "perfetto", oppure essere afflitto da un complesso d'inferiorità; basta che egli lotti apertamente contro i propri difetti e cerchi d'eliminarli progressivamente, senza nasconder nulla ai ragazzi. Guai a chi nasconde una lacuna con l'inganno! Se un insegnante non sa una cosa, non deve trovare scuse; deve ammettere francamente di non saperla e ricercare insieme ai ragazzi. Chi è distratto lo ammetta, chi commette qualche errore lo riconosca francamente dinanzi ai ragazzi; questo è il miglior abito che il maestro potrà far acquisire ai fanciulli. Questi capiranno che la perfezione non è un dono gratuito, ma qualcosa che si conquista via via con lo sforzo e la dura lotta; che il miglior modo per migliorare se stessi è confessare, a sé e agli altri, l'errore e la deficienza; che nessuno (né il maestro né altri) è depositario dell'assoluta sapienza.
(Bruno Ciari, Le nuove tecniche didattiche Cap.3, 2012, Edizioni dell’ Asino)
当たり前と言えば当たり前すぎる「教師論」かもしれませんが、現実を見渡せばその実践がいかに難しいか、昨今の教育問題に関するニュースを見ると強く感じざるを得ません。おそらく問題への取り組みは日本だけでなくイタリアでも継続していることでしょう。
(昨今の教育・保育の環境における教育者の疲弊については、望ましい教育環境を整備しないまま教育的成果だけを求める社会のねじれ現象の問題も感じるのですが…)
チアリの教育論と実践が世に紹介されてから60余年が過ぎていますが、子どもたちを管理する教育ではなく、自立し自分で考える良識を持った人間へと導こうとする教育のあり方について考える参考資料として、いまなお学ぶべきことの多い内容ではないかと感じています。
また冒頭に触れたように、チアリや「教育協力運動」の教育観と実践について知ることによってレッジョ・エミリアの幼児教育の理解も深められると期待しています。
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