1981年:子どもの表現に向けられた、日本とイタリアの二つのまなざしについて(『児童画のロゴス』感想)
たまたま本屋さんで目にとまって手に取った児童画についての研究書から、多くの共感する部分を発見しました。
著者は幼児と児童の描画について、その表現要素を丁寧に拾い上げながら子どもの発達と表現の変化について、それぞれの意味を考察しています。
特に本の後半に述べられている、子どもの表現発達に対する大人の姿勢についての主張には「まさに然り」と感じるものがありました。
p.119
おとなが子供の描画のためになすべきことは、画を描くための機会をつくってやること、どんなにおとなの目に奇妙に見え、あるいはものたりなく見えようとも、子供の描いたものにいつも好意と共感をもつこと、そして子供が行き詰った時に適切な処置を講ずることである。ここで適切な処置というのは描きかたを教えることではない。手本を示すことでもない。具体的に言えば、子供の経験を刺戟してやること、材料を変えてやること、などを指す。
経験を刺戟するとは、子供が現にその場に居合せ、そのことないしはものをまざまざと体験している様な気持にさせることである。それには例えば音とか匂いとか手ざわりとか、視覚以外の感覚経験をも思い出させることが、少なからず効果がある。画とは見たものを見た様に描くことではない。体験を表現することだ。この体験はけっして目だけで知覚したものではなく、身体性を含んだ精神の全体にかかわるものである。だからこの様な刺戟が効果をもちうるのだ。
p.121
とにかく数師であれ両親であれ、おとなが絶対にしてはいけないことがある。それは子供の表現形式に干渉することだ。子供が現在描いているその形式は、おとなによって教え込まれたものでないかぎりは、その子が発達の現段階で必然的にとらなくてはならない表現形式なのだ。
「頭足類」を描いているとき、おとなの目には不合理に見えるので、「顔からお手ては出ていないでしょ。よく見てごらん。おなかがこんな風にあって、お手てはここから出ているのですよ」と言って教え、胴部から手の出た人間を描かせることは容易かもしれない。だがそうした場合、子供はみずからの力でそれを発見するチャンスを失ったことになる。段階というのは文字どおり、階段と同じなのだ。階段を上るにはふつうの歩きかたではだめであり、一歩の飛躍が必要である。なにがこの飛躍を可能にするのか。現段階の習熟ということがあるだけだ。
大変興味深いことに、この本が上梓された同じ年、イタリアではブルーノ・ムナーリが1977年に実現した子どものためのワークショップについての本を発表しており、その中で共通する意見を述べていることに気づきました。
Bruno Munari, 1981, ”Il laboratorio per bambini a Brera”, Zanichelli
ブルーノ・ムナーリ、1981、『ブレラ美術館における子どものためのワークショップ』
P.8
CIÒ CHE NON SI DEVE FARE
Dopo aver cercato di definire i tre punti: che cosa, come, con che cosa, sembra utile anche cercare di definire ciò che NON si deve fare nel laboratorio.
Non si deve fare confusione, ogni argomento, ogni tecnica, ogni regola devono essere spiegate visivamente una alla volta, ben separati gli uni dagli altri.
Non si deve spiegare a parole quello che si può spiegare dando l'esempio: invece di spiegare a parole in quanti modi si può usare un pennarello, si prende il pennarello e si fa vedere quanti tipi di segni diversi può fare secondo la pressione, l'inclinazione, la lentezza nel tracciare il segno o la velocità.
Il bambino capirà subito.
やるべきではないこと
何を、どのように、何を使って、という3つのポイントを定義した後、またワークショップで行うべきではないことについて定義することが役立つと思われる。
混乱がないように、すべての主題、すべての技術、すべてのルールは、互いによく分離して、一度に一つずつ視覚的に説明されなければならない。例を挙げて説明できることを言葉で説明するのではなく、例えばサインペンの使い方を言葉で説明するのではなくサインペンを持って、筆圧や傾き、絵を描く遅さや速さなどによって、どれだけの種類の図形ができるかを示していく。
子どもはすぐに理解するだろう。
Non bisogna costringere il bambino a fare un esercizio: se lo si fa, poi lui lo vuole provare subito, non c'è bisogno di costringerlo a fare. Non si devono dare giudizi di valore sugli elaborati dei bambini.
Se noi puntiamo sullo sviluppo delle diverse personalità, non ci sarà più il più bravo, tutti avranno fatto del loro meglio.
Non criticare o correggere i lavori dei bambini. Con gentilezza ci si fa spiegare quello che il bambino voleva fare, può darsi che non si abbia capito; dopo si potrà aiutare il bambino a esprimersi meglio, sempre dando l'esempio. Non buttare per terra niente, i rifiuti vanno nei cestini.
Non sporcare o sporcare il meno possibile. I bambini fanno quello che vedono fare dagli adulti.
E soprattutto non suggerire mai ai bambini i soggetti dei loro disegni.
子どもに無理に練習させる必要はない:練習なしにすぐにでもやってみたいと思っているのであれば無理に練習は必要はない。 子どもたちの仕事に価値判断をしてはいけない。異なる個性の発達にフォーカスすれば、それ(価値判断)はもはや重要ではなく、誰もが最善を尽くしたことになるだろう。
子どもの作品を批判したり、添削したりしてはいけない。親切に、子どもが何をしたいのか、あなたが理解していなかったかもしれないことを彼らに説明させることができれば、その後、常に例を示して子どもが自分自身をよりよく表現するのを助けることができる。床には何も投げないようにゴミはゴミ箱に入れる。汚さないこと、汚れを極力ださないように。子どもたちは大人がやっているのを見ている。
そして何よりも、子どもたちに絵のテーマを勧めてはいけない。
乳幼児期の表現形式は、それが大人から見て非合理的であったり、稚拙であったとしても、自然に表出する表現であれば、私たちには理解できていない何らかの必然があり、大人は(特に保育者や教師は)それを尊重しなければいけない、幼児の表現に対する尊重の意識がなければ、むしろ教師の働きかけは子どもの主体的な発達を阻害する危険がある、ということでしょう。
教育に携わる大人が、教育の対象たる子どもへのリスペクトをもって望むべきであることは、マリア・モンテッソーリも自著の中で強調しています。
このことは繰り返し意識されなければいけない、大切な課題だと思います。
…ただし、僭越とは思いつつ、この本の『児童画のロゴス』という題名にはちょっとした違和感を感じました。あえて『幼児画の…』としてもよかったかもしれないのでは…と。
今日の子どもたち(おそらく二十世紀後半も同じだったことと思いますが)は、児童期になる頃には「自分の描画表現の成果がこのように見えるものでありたい」(例えば大人の描く絵のような巧緻性を達成したい、好きなイラストレーターの表現に近づきたい、など)という一種のものさしを持ち始め、それは社会が提供する膨大な情報や人工的な価値観に基づくものかもしれませんが、その「ものさし」を無視して表現することが難しくなっていると思うからです。
「子どもに自由に表現できる環境を提供する」ことが「子どもが自分の表現に求める(ある種の社会的人工的)ものさし」を無視せよ、と強いることとイコールではないように思うのです。言ってみれば「子どもが自分の表現を好きになれる表現環境を提供する」ことが現代の教師の課題ではないでしょうか。
となれば、稚拙でも自由に表現し、これを満足して楽しめる乳幼児にはそのように向き合い、社会的なものさしを身につけつつある児童期の子どもたちには「ものさしは一つではなく多様であることの理解への手助け」と「自分の作り得る表現に何らかの満足が得られる環境を提供すること」に、大人が知恵を絞る必要がある、と思うのです。