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アララ
『絶滅できない動物たち』M・R・オコナー
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ブロンクス動物園の「爬虫類の部屋」で著者が見たのはテラリウムで飼育されている十数匹のキハンシヒキガエルだった。厳重に防疫され、温湿度が徹底管理された部屋で生きるこの極めて希少な蛙はさながら生命維持装置に繋がれた患者のようだった。
この蛙の故郷であるタンザニアの滝には、水力発電ダムができたのだった。そして今、蛙はこのテラリウムで生きながらえている。著者の頭には「人間はこのカエルを絶滅するに任せるべきだったのではないか」という禁断の考えが浮かんだ。
電力に乏しい庶民の暮らしのために不可欠な水力発電。かたや風前の灯火のカエル。なぜ生物を保全するのかという問いは長年議論されてきたが、キハンシヒキガエルは保護そのものから問題を生じさせた。
我々は種を保全しようとする。だが皮肉なことに種を救おうとする我々の干渉が深まるほど、その種の「野生」と自律性が失われていく。ここに大きく横たわる倫理上の問題は、「人間は、自分たちが種に及ばしている進化の影響を認識したうえで、そうなってほしいと望む方向に意識的に進化を誘導したり、操作したりすべきか否か」だ。
キハンシヒキガエは保護施設で飼育され、いくつかの個体は野生に戻されたが生存状況は芳しくない。絶滅寸前のフロリダパンサーは人間が放ったピューマと交雑することでかろうじて生き延びている。遺伝子の冷凍保存は生態系保全に繋がるのか。絶滅したリョコウバトやネアンデルタール人をDNAから「復元」すべきだろうか。
アララ、別名ハワイガラスはかつてハワイの森に多数生息していた。ハワイの言葉で「アララ」は「わめく、めそめそする、叫ぶ」などの意味がある。林冠を使って天敵のハワイノスリから身を守り、道具を使ってエサを取る。一夫一婦制で相手と長くつきあい、毎年早春の雛が孵る間に一緒に巣を作る。
ポリネシア人が移住してから人間や人間が連れてきた動物との生存競争が始まり、1800年代にはネズミやマングース、猫の到来でさらに熾烈になった。1980年代後半から1990年代初めにかけて野生のアララの個体群の衰弱が進み、飼育下プログラムもうまくいかなかった。
2002年、野生の最後のアララが消滅して以来、森でアララは目撃されていない。飼育下繁殖プログラムで百数十羽が残るのみだ。うまくいけば森林保護区に放せるかもしれないが、人間に半依存状態となるだろう。
アララは複雑な生き物である。その学習能力と社交性は霊長類やイルカに匹敵すると言われる。だがそれは生まれつきではない。少しずつ学習してカラスになる。いかにしてカラスになるかは親から教わる。一方、飼育下繁殖では抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変した。世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減り、ハワイノスリの避け方が分からなくなり、自分でエサを探さなくなった。
ある研究員は「絶滅は種の死である」という視点に立ち、絶滅とは「繊細に絡みあっている種のありかた」を時間をかけて解体していく作業だとした。だからこそ組織を保全する遺伝子バンクは大きな問題を孕んでいる。ゲノムを分離できたから生命体や種の本質を捉えられたというわけではない。人間のDNAを冷凍保存すれば、人間を人間たらしめる要素が保存できる、と言えるだろうか。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』で原住民が自然に関する豊潤な知識体系を有していた証拠を多数提示した。フィリピンのピグミー族は450種の植物、75種類の鳥、20種のアリ、そしてヘビ、魚、昆虫はほぼすべて、やすやすと言い当てることができた。
フランスの民俗植物学者はガボンで、隣り合う5つの部族から8000件の植物用語を集めた。この知識は植物専門の人間だけのものではなく、部族全体で何世代も受け継がれる。民族が絶滅すると、こうした知識や世界との関係も一緒に消滅する。種が絶滅しても同じことが起こる。
いま、身の回りの動植物に詳しいと自身を持って言える人がどれくらいいるだろうか。おそらくこれが、種の消滅の物語に私たちが一瞬しか関心を示さない最たる理由だろう、と著者は言う。「その価値が、わたしたちには抽象的なのだ。心から気にかけていると主張する人々にしても、種の存在が日々の経験や要求に結び付いていることはあるまい。」
キタシロサイの最後の一頭になる。餌を探すタイセイヨウセミクジラになる。こんなことに思いを巡らせているうちに湧き上がる驚きこそが、世界の種を尊敬し、思いやる土台となるのかもしれないと、著者は結んだ。
繁殖プログラムで一羽のアララが死んだとき、ボランティアの一人は死骸を生物学者に渡さず、埋葬した。かつてハワイの戦士は、敵が冒涜行為をしないように仲間の死体を隠した。彼女は、膝の上に載った「種の生存と絶滅とをつないでいた最後の壊れたリンク」を埋葬することが唯一の“正しい”行いだと信じた。
本書にカラスは仲間の死を弔うと書かれている。実際は危険を察知して原因を探ろうとしているだけだが、そのように見えるということに意味があるのではないだろうか。
ハワイでは、愛する人を亡くした女性の泣き叫ぶ声も「アララ」と言うのだ。
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