「したたかさ」と「分際」
『熊を殺すと雨が降る』遠藤ケイ
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自然保護とは一般には、昆虫や草花や大小さまざまな動物が人間の影響を受けずに生活している環境を守ることと理解される。そこで里山という空間が自然保護の理想として語られることは少なくない。しかし、その意味での“自然保護”なら、本来注目すべきは里山ではなく、流域である。川の流域から広がる自然環境こそ、人間の直接的な影響を受けない、手つかずに近い環境が残っている。また川は山(内陸)と海をつなぐ重要な存在であり、だからこそ、『森は海の恋人』で畠山氏は川の流域に広がる森の再生に取り組んだのだ。『「自然」と言う幻想』の訳者である岸も、学生時代から流域を基本とした自然保護活動を続けてきた。同書のあとがきで、岸は自然保護はそもそも流域を基本とするものだが、エマ・マリスが同書で主張したように、手つかずの自然が存在しないという視点に立つと、里山を手本とした自然保護もあり得ると解説した。
このように、里山を想定した自然保護は矛盾している。ただし、自然とは人間が積極的に介入しながら作られたものでもあるという考え方に立てば、里山の在り方は自然保護がどうあるべきかのヒントを与えてくれる。
実際、人間は長らく自然に手を入れながら生活してきた。だが、自然は時に圧倒的な力で人間を襲う。ではそのような自然に人々はどう立ち向かい、利用してきたのか。本書の主題はそんなところである。
山の仕事から、猟、漁、食事や口伝まで山の暮らしを記録した『熊を殺すと雨が降る』。本書を通読して浮き上がってきたのは、二つの言葉だった。すなわち、「したたかさ」と「分際」である。
人々は山を畏れ敬いながらも、そこから最大限の利益を得ようと策を凝らした。そのような「したたかさ」は本書の至る所に出現する。猪や熊の猟法や魚の漁法、山菜採り、またそれらの利用法など詳しく見ていけばキリがないので、ここでは林業だけ例に挙げる。
山師たちは、かえる股の木やめがね木といった神や天狗の宿る木とされる木を忌み木として、伐ることを厳に禁じた。伐れば災いが起こると言い伝えられた。もちろん、それらは山や老木がもつ底知れぬ威圧感からきたものだろう。だが、そこには信仰とは別の人間の“したたか”な打算が働いている。
林業の本質は、常に造林に腐心し、森林を将来にわたって育成していくことにある。その造林事業は50~60年の周期で行われる。そのため一代では終わらず、二代、三代にわたる。極端に言えば、次の伐採まで財を食いつぶして待たねばならない。だから、長い木材不況ではもたないこともある。そのとき、伐り残した樹齢の長い巨木が窮状を救う場合があるのだ。
「熊を殺すと雨が降る」というタイトルに戻ってみる。額面通り、熊を殺すと雨が降るという。聖なる山を熊の血で穢したことに神が怒り、雨で清めるのだと。
だが、山師は別の意味も知っている。
雨が降る前に、熊は食いだめをするために出歩き、撃たれることが多いということを。山師たちの間で語りつがれる口伝の数々は、神の祟りや魔境への恐れという表面上の意味とともに、動物たちの習性や同じ過ちを繰り返す人間の弱みを見抜き、危険と隣り合わせの山で生き延びるための誡めが込められている。
自然の山は300~400年の周期で崩壊と再生を繰返す。そこに人間が入り込む余地は、本来、ない。だがそれでは人間は生きていくことができない。だからこそ、人は山に手を入れ、崩壊と再生の周期を50~60年にした。するとそこに人間の入る余地が現われた。
だが、ある老山師はこう言う。
「分際」-。どこかかび臭いこの言葉はしかし、山に棲む人間が、過酷な自然環境の中で自然とどう折り合いをつけ、労働と生き継いでいく手立てを見出していくかという大きな命題を示している。
「山の暮らしの崩壊は自然の崩壊を意味する」と著者は言い切る。『絶滅できない動物たち』で触れたように、種や民族が絶滅すると、その文化も共に消える。山が生活の場所ではなくなり、その民俗が消えつつある今、山林を巡る頓珍漢な「自然保護」論を聞くにつけ、この言葉がますます現実味を帯びる。
人と自然の関係は弥次郎兵衛の両極に対応するのではない。むしろ一端から一端へ連続するグラデーションの関係にあり、そのうえで均衡が保たれている。
例えば、人がクヌギを伐採する。残った部分からひこばえと呼ばれる芽が生え、株を覆う。そして古い株にキノコが生え、腐り、朽ち、空洞ができる。そこはカエルやミツバチの住処となる。ひこばえは“孫(ひこ)生え”の意味である。
阿蘇の麓では毎春野焼きが行われる。人が定期的に火を入れ、草原を維持することで守られている希少植物もある。
人は生きるために野生の生態系の中に、自分たちが割り込む余地を作り、生き継いできた。入り込む余地がないのは人間の手ではなく、観念の先走った自然論だ。山が生活の場から単なるレクリエーションの場となった今でも、山はその潜在的な恐ろしさを決して失ってはいない。山師たちの声に今一度、耳を傾ける必要がある。
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