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ウパーサナについて

まずはじめに

ウパニシャッドの中で「ウパスupas」という言葉が数多く見出されるのだが、この意味が学者さんの間でさまざまな訳となっている。

そこで、その意味について、学者さん方の意見を引用しながら今現在の私個人の認識を書きあらわしてみようと思います。

ウパースについて

■ウパースによる同置

服部正明先生は、『古代インドの神秘思想』の中で以下のウパニシャッドから引用し、「AはBであると念想する(ウパース)」や「AをBとして念想する(ウパース)」という表現が数多く見出され、Aは自然界の要素、人間の機能、祭式の要素、その他現象的存在で、Bは絶対者ブラフマン、または、最高価値を付与されたものであるのが通例であるとしている。

思考力はブラフマンであると念想すべきである。
虚空はブラフマンであると念想すべきである。

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3.18.1

オームという字音をウドギータとして念想すべきである。

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド1.1.1

彼方の太陽の中の人間、ーまさしくそれを私はブラフマンとして念想している。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド2.1.2

これらの用例から、「念想する(ウパース)」という語が、ある既知の現象的存在を、思考存在と同値する心的過程を意味すると解してよいだろうというのが服部正明先生の意見である。

■祭儀における行為としてのウパーサナ

しかし、このようなウパーサナ(念想)は、ウパニシャッドにおいて初めて現れるのではなく、もともと、祭儀における行為でもあったようです。

オルデンベルグが著した『ウパニシャッドの教義と仏教の起源』の中で、ウパーサナについて以下のように述べている。

・・・さらにここで「崇拝(ウパーサナ)」と称せられる行為について言及しておかなければならない。人は荘重な態度で、あるいは祭詞を唱えながら、あるいは祭詞を唱えずに、崇拝すべきものに近づく(upa-stha)、または、恭虔な瞑想の中でそのものに対座する(upa-stha,upa-ni-sad)。・・・しばしば見られる、特殊な崇拝の形式は、崇拝すべきものを、ある名称の元に、その名称を持つ存在の中に具現化しているものとして、恭しく思念するという形式である。すなわち人は神秘的な祭火を言葉として崇拝すべきであり、祭式の歌詞をオームという音綴(おんてい)として崇拝すべきなのである。それを指令する規定に続いて、当該の同値をさらに敷衍し、明瞭にする説明がされたりする。・・・

オルデンベルグ『ウパニシャッドの教義と仏教の起源』

服部正明先生は、このような宗教儀礼としてのウパーサナが、より精神化され、崇高な、超越的な対象に関する思念となった時に、ウパニシャッドの世界が開かれてくるというのがオルデンベルグの見解としてる。

オルデンベルグの見解からする岩本裕先生の訳が以下となる。

意をブラフマンとして尊崇すべきである。
虚空をブラフマンとして尊崇すべきである。

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド3.18.1

太陽の中にいるかのプルシャを、わたしはまさしくブラフマンであると認めています。

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド2.1.2

■ヨーギ(行者)が行じるウパーサナ

以下に、ヒマラヤ行者であるヨーゲシヴァラナンダ師の直弟子たる先生の訳したチャーンドーギヤ・ウパニシャッドを以下に引用します。

阿吽(アウン)、神様を讃咏するこの音に対して私たちは瞑想を施さなければならない。

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド1.1.1

ここでは、ウパーサナは瞑想であるとしています。瞑想といっても広義の意味合いがあるので、師と弟子との間のみで語られる内容であると思います。

先生は、講義で神様を讃咏するこのオームという音の意味を瞑想にて熟考しなさいとのことでした。すぐに座って眼を閉じて考えても答はチーンと出ることはないけれども、考えて考えて考えまくる。そうすると、私の体験では、フッとした時にこうではないか?という考えが浮かんでくる。その考えを日々の生活の中で汎用する。そしてその結果を熟考して、また、当初の問いに戻って瞑想し実践してその結果を検討してまた瞑想するの繰り返す内に、なんとなく、わかり始めていく感じです。

■ウパースとウパニシャッドの関係

ウパース(upa-as)とウパニシャッド(upa-ni-sad)の緊密な関係について、ウパニシャッドは「座る」を意味するni-sadに接頭辞のupa(近くに)を付して作られた語で、近座、待座、すなわち弟子が師匠のそば近くに座ることを原義として、そのようにして教えられる秘密の教説、さらにはそれを収録した文献を意味する、というのがそれまでの通説であったが、ウパースも座るを意味する語源asに接頭辞のupaを付した語で、ウパースとの関連の指摘はウパニシャッドの語義の解釈に重要な意味を持つことであったと服部正明先生は考えているようです。

私の体験で言えば、ヒマラヤの洞窟にて二週間ほど三昧の境地に入ったまま瞑想するヨーゲシヴァラナンダ師の一番弟子であるヨーギニが大阪へおいでになった機会に聖名をいただき、一番近くにて一時間ほど瞑想したのですが

その体験は、言語に表すことはできませんが、これがウパーサナでありウパニシャッドという意味はこういうことかと腑に落ちたことがありました。

このような機会をヨーゲシヴァラナンダ師のお近くでたびたび、いや、毎日行える至福を得られたとはと、感じつつ、このようにして、師から弟子へと何千年もの歳月を経ても連綿とした教えは受け継がれているのだと思ったものです。

ウパースによる同置の反論

■A=BであるがCは念想してもA=Bとなり得ない

今まで長々といろんなことを調べて引用して書いていますが、ここが一番伝えたいこととなります。

説明する上でわかりやすく、Aはアートマン(真我)、Bはブラーフマン、Cはブラーフマンを拒絶しアートマンであることを認識していない個我とします。

ウパニシャッドの核心をなす思想は、個体の本質たるアートマンと最高実在ブラーフマンの合一であると言えます。つまり、A=Bの公式となるはずです。この公式に当てはめるならば、素直に、Aである自分をBと同置して念想する意味はあるように思えます。

しかし、この考えで何世紀生きて実践したとしてもこの公式つまり仮説は実証することができません。

今現在自分はCであると認識している限り同置することは不可能です。たとえば、ある少年が大谷翔平選手と同置して念想しながらいくら練習しても大谷翔平選手にはなれません。少し考えたらわかることですが、念想するという意味合いには魔術的な雰囲気が含まれるので、それこそ、念着してしまうのかもしれません。

ただし、師と弟子との関係性において、弟子が師のようになりたいとして師を敬愛しつつも師と自分を同置してヨーガの行に勤しむことを否定しているのではありません。

問題は、自らをAとなるアートマン(真我)として認識できないことであるので、Cである個我はブラーフマンをいくらかは念想できても同置することができないという現実を解決することはできません。

■ネイティネイティ・ブラーフマン

理想的には、これから述べることは素晴らしい師がおそばにいらっしゃることなのですが、なかなか、そのような恩恵にあずかることはないけれども

ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドからヤージニャヴァルキヤ師のネイティネイティ・ブラーフマン、つまり、これはブラーフマンにあらずこれもブラーフマンにあらずと、アートマンである自らに付着したものを、タマネギの皮を剥ぐようにしていくことになります。

CはAではないという仮説を日々の生活の中で実践することで、最終的にAでありBは実在するという実証になるという考えになります。

まさしく「言うは易く行うは難し」ですが、長く実践するとメンタリティーは確実に強くなりますし、この仮説は本当かもとの確信に近づいていきます!

最後に

ウパーサナについて、また、違う角度からお伝えすることもありますし、また、ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドについて書く機会もあるかもしれません。

時間をかけていろいろな資料を読んだ上で、長々と書いたわりには、読み返すとよくわからないかなと思いつつも今回はこれで終えますね。


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