「ジェイミニ大師によれば空間的制限でブラーフマンを表現するのは瞑想時の重ね合わせを理由とする」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.31)
はじめに
今回引用されているアシュヴァパティ王は、『チャーンドキヤ・ウパニシャッド』の第五章十一節から二十四節の「五火説」において、ウッダーラカ・アールニーに率いられた五人の偉大な家長であり学者たちがアシュヴァパティ王に近づくと、王はそれぞれに「あなたは何をアートマンとして崇拝するのか?」と尋ねるくだりが知られています。
最初の者は天ですと答え、次の者は太陽ですと答え、三番目の者は風ですと答え、第四の者は虚空ですと答え、最後の者は水ですと答えた。そして、最後にウッダーラカ・アールニーは大地だと答えた。
王はそれぞれに対してに、天はアートマンの頭で、太陽はアートマンの目で、風はアートマンの気息で、虚空はアートマンの胴体で、水はアートマンの膀脱で、大地はアートマンの両足でしかないからだと応えた後に
「実に諸君らはこの一切に遍満するアートマンをそれぞれに別のものであるかのように認知して食物を得ている。しかし、この一切に遍満するアートマンを指尺の長さだけのものであり、しかも計量を超越したものとして尊崇する者は、一切の世界において、一切の存在において、一切のアートマンにおいて、食物を得るのだ…」
と伝え、祭火に投げ入れる供物として、プラーナ・ヴィヤーナ・アパーナ・サマーナ・ウダーナに対しての各解説を施し、このことをこのように知るならば、アグニ神を祀って祭火の中に供物を投げ入れるときには、一切の世界に、一切の存在に、一切のアートマンに、供物を捧げることになると説いている。
そして、火にくべられた葦の穂先が焼けるように、その罪悪はすべて焼き尽くされる、と。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章三十一節
31節 ジェイミニによれば、空間的な制限は重ね合わせに基づく瞑想を理由として(正当化できる)であり、これは(別のテキストで)示されている。
あるいは、空間的な制限についてのテキストは あるいは、重ね合わせによる瞑想(つまり、小さなものを偉大であると想像すること)のせいでそこに書かれているのかもしれない。
どのようにして?
というのも、ヴァジャサネヤ・ブラーフマナの同様の文脈では、三界に具現化されたヴァイシュヴァーナラ自己の天から地までの数えられた手足が、頭のてっぺんから顎までの数えられた肉体的な手足に重ね合わされているからです。そして、このブラーフマナは、重ね合わせに基づく瞑想において、至高の主がどのように空間的に制限されるかを示している。(S.B.X.vi.1.11) (アシュヴァパティ王はブラーフマナ、プリチーナサーラ、その他に言った) 「神々は、あたかも空間的に制限されているかのように、主を完全に知っていました。神々は主を最奥の自己として知っていた。それゆえ、私はそれらの手足についてまさにそのように話します。私はそれらの空間的な制限に従って、それらを重ね合わせる。頭の刈り込みについて教えているとき、彼 (王) は言いました、“これ (私の頭の刈り込み) は、すべてを超越する (天) としてのヴァイシュヴァナーラですか?”二つの目について教えながら王は言った。“これ(私の二つの目)は太陽(主の目である)としてのヴァイシュヴァーナラである”鼻の穴について教えながら王は言った。“これは(主の息である)空気としてのヴァイシュヴァーナラですか?”口の中の空間について教えながら王は言った。“これは広大な空間(主の胴体である)としてのヴァイシュヴァーナラですか?”口の中の唾液について教えながら王は言った。“これは水(主の膀胱である)としてのヴァイシュヴァーナラですか?”顎について教えながら王は言った。“これは大地(主の御足を構成する)としてのヴァイシュヴァーナラである”」cubuka(顎)という言葉は、顔の下(顎)の骨と理解されるべきである。ヴァジャソネヤ・ブラーフマナでは、天はすべてを凌駕し、太陽は光り輝くものとして語られているが、チャーンドギャでは、天は光り輝くものとして、太陽は多くの形を持つものとして語られているが、それでもこの違いは害(*28)にはならない。なぜなら、空間的な制限に関するヴェーダの声明は同じだからである。そして、(ヴェーダの)すべての分派(the branches)において、(ヴァイシュヴァーナラとその他のものに対する)同じ種類の瞑想が証拠となっている(ことが示されるであろう)。ジェイミニー師は、空間限定に関するテキストは、重ね合わせに基づく瞑想のために生じたと言う方が論理的だと考えている。
(*28)damaging:一方のテキストで述べられている性質を他方のテキストに追加することによって調和されなければならないことは、後で明らかになる。したがって、両方のテキストは、天を輝かしく、かつ、すべてを凌駕するものとして受け入れなければならない。あるいは、属性は異なっていても、瞑想は同じであるとも言える。
最後に
今回の三十一節を要約すると
ブラーフマンが心臓の内の小さな空間の中にいるとの表現がされるのは、瞑想時の想念の働きとなる小さなものを偉大であると想像する重ね合わせに一致しているからであると聖師ジェイミニ大師も言及しているし、このことはシャタパタ・ブラーフマナに記されているからだ。