苦しみの連鎖(カルマ)から解放するための智慧もしくは希望について
まずはじめに
前回は、「欠乏から必要が生じ行為によって埋められない苦しみの連鎖」にて、「付託」により誤って認識してしまう「無智さ」からどのようにして「行為」とその「結果」について苦しむのかについて、ご一緒に考えてみました。
今回は、その苦しみの連鎖、つまり、カルマ(行為)から解放するための智慧もしくは希望について、ご一緒に考えてみましょう!
苦しんでいるのは誰?
ここで、苦しんでいるのは誰なのか?について考えてみたいと思います。
あなたが苦しんでいるのは、あなたが誤って「私は苦しんでいる」と考えているから苦しんでいるのだ、と実際に苦しんでいる人に伝えてもまったく助けにはならないのですが
この"note"を読む人は、おそらく、苦しみの連鎖から根本的に解放されたいと望む人だと仮定して、これからお伝えいたしますので、そこそこ楽しみもあるし多少の苦しみは仕方ないことではないか、とお考えの方はここで閉じていただけたらと思います。
ここから読まれる方々は、腹が据わっている人たちとして、お伝えさせていただきます。
まず、「誤って私は苦しんでいると考える」ということについては、以前に「輪廻とは無明であり解脱とはその無明を滅することに他ならない」にてお話ししましたし、付託(アディアーサ)という以前に知覚したものを別の場所にて想起して他の形で現れたように誤認することがまず重要なポイントになります。
そして、統覚機能(ブッディ)という鏡の映像を「私」という観念の主体と誤り、自らをアートマンではなく知覚主体としての自我意識とするカラクリについては「アートマンを知覚主体と誤るカラクリがマーヤー(幻力)を生み出している」をご参照ください。
続けて読んでいる方々に復習ということで、もしくは、上の記述は飛ばして以下をお読みください。
「身体の中にあって、この苦を観るものは、苦しむことはない」についての解説として、二十節のように、心優しい父親が息子の苦痛を自分自身の苦痛のように感じていることを「付託」として解説しています。
他の例としては、つわりで苦しんでいる母親と一緒に吐き気を催す子供もそうですし、もしくは、悲しいドラマを見て共感して泣くことも「付託」と言えるでしょう。
これらの「苦」を観るもの、つまり、認識主体たるアートマンは、身体の中に居て知覚主体だと誤って考えることで「私は苦しんでいる」として苦しんでいるのであって、苦しむことはないとシャンカラ師は教説しています。
苦しみから解放される智慧は?
ここの「そうではない。そうではない」については、「ジャナカ王に授けた教説真我を悟る聖者とは?」をご参照ください。
例えば、この「付託」が強く結びつけられた場合、毎日の生活において、どのように影響されるのかと言いますと、前回の「欠乏から必要が生じ行為によって埋められない苦しみの連鎖」でご紹介したように、自分が快適に過ごすための「必要」を誰かに・状況に・食べ物に・乗り物に・天候に・社会に・政治に・国に・世界になどなどに強く求める(依存する)ことになります。
そうなるとどうなるのか?想像すればすぐ分かることだと思いますが、メンタルが強い人ではない、というよりも、メンタルは極めて弱くなると言えます。
この「そうではない。そうではない」として、マーヤー(幻力)によって作り出された「必要」との結びつきを解除して手放すとき、少しずつ少しずつ苦しみの連鎖から解放されることをお約束できます。
「欠乏」から「必要」が生じる「行為」に伴う「苦しみ」の連鎖が生じていたことを、この手放すことを継続していくプロセスにて、実感することでしょう。
最後に
実際にこのプロセスを継続していく際に、ただ単に、「苦しみ」から逃げるということと解放されることの違いも、「知覚主体」ではない「認識主体」として観ることができますし、「欠乏」→「必要」→「行為」→「苦しみ」というサイクルは実在するとする「錯覚」の中でも、「客観視」しながら、「苦しみ」自体に対しても、これらのサイクル自体に対しても、観ることができるようにゲームでいうところのステージが上がるといいますか、「苦しみ」が緩和されることにもなりますので、手放すことが少しずつたやすくなると思います。
最初の内は、のたうち回るかもですが、すなわち、「ここで何を手放すというのか?」と怒りながら苦しんでいることに油を差しながらも経て、「強く」そして「賢く」なっていけるので気長に取り組んでいきましょう!