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「悟りを得た聖賢方によっても安住の地はブラーフマンであると知られている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.3.2)


はじめに

今年の年賀状に少ないながらも数人の友人からシャンカラ註解書はなかなかに難しいとのコメントがあり、読んでいることがわかって、正直、しんどくなることもあるけれども生きてる限り続けていこうと決心した次第です。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第三章二節

2節 なぜなら、そこには自由を得た者による(その)達成についての指示があるからだ。

この天、地などの安住の地が、解脱者が到達すべき目標として教えられているというこの追加の理由から、この安住の地は至高のブラーフマンであるということになる。Muktopasrpyaとは、束縛から解き放たれた者が到達できることを意味する。無智とは、自己ではない肉体などについて、自我を楽しませる観念を抱くことで成り立っている。この自己同一化の結果、その肉体を崇拝する者への愛と、その肉体を侮辱する者への憎しみ、そしてその肉体の死に気づくことによる恐れと混乱が続く。このようにして、無限の差異を持つこの多数の悪が永遠に流れ続けることは、誰の目にも明らかである。これに反して、この天と地の安住の地については、無智、愛、憎しみなどの欠陥から解放された者たちによって到達されると述べられている。

それはどのように述べられているのでしょうか?

「高きにあり低きにある自己(すなわち原因と結果)を悟るとき、心臓の結び目がほどけ、すべての迷いは解決され、すべての行為は消滅する」(Mu.II.ii.8)と宣言した上で、「流れ下る川が、その名と形を放棄して海に到達すると区別がつかなくなるように、照らされた魂もまた、名と形から解放され、高次のマーヤー(物理的な形をとっていないunmanifested Nature)よりも高次にある自ら光り輝くプルシャに到達する」(Mu.III.ii.8.)と述べている。そして、解脱した者がブラーフマンに到達できることは、次のようなテキストからよく知られている。「心臓に宿るすべての欲望が消え去ったとき、死すべき身であった者は不死となり、この身であってもブラーフマンに到達する」(Br.IV.iv.7)

しかし、プラダーナとそれ以外のものは、解脱者が到達できることはどこにも知られていない。また、天と地の安住の地である実在については、「その自己だけを知り、他のすべての話を放棄しなさい」(Mu.II.ii.5)というテキストの中で述べられており、この実在は、言葉(つまり、すべての器官の活動)を放棄した後に実現可能である。そして、この事実はまさにブラーフマンに関連して別のウパニシャッドで宣言されていることがわかります。「ブラーフマンを求める賢明な求道者は、このことだけを知って、直感的な智識に到達するべきである。多くの言葉を思い浮かべるべきではない。言語器官を特に疲労させるからだ」(Br.IV.iv.21)この理由からも、天と地の住処はブラーフマンである。

最後に

今回の第一篇第三章二節にて引用されている『ムンダカ・ウパニシャッド』と『ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。

そのお方は意思からなり(マノーマヤ)、生気(プラーナ)と身体(シャリーラ)の導き手であり、食物(アンナ)の中にあって心臓を動かされている。賢者は神智をもって、この歓喜に満ちて輝きわたる不滅なるもの(アムリタム)をはっきり悟る。

(Mu.II.ii.8)

流れる川が海に流れ込むときには名称と形態が無くなるが、斯くのごときに気づいている賢者は名称と形態にとらわれることがなくなり、高きものより高きにある聖なる神我(プルシャ)に達する。

(Mu.III.ii.8)

より高きものにして低きものであるお方(ブラーフマン)が意識化された時に、心臓にある(無智さの)結節はほどけ、すべての疑念は晴らされ、行為(カルマ)も尽きてしまうのである。

(Mu.II.ii.9)

この事に関して、次のような聖句があります。

「心の臓に宿りおる、すべての欲が消えゆけば、限りある者不死となり、その身が梵(ブラーフマン)に至るなり」

たとえば、蛇の抜け殻が蟻塚の上に捨てられて命なく横たわっているのと同じく、この肉体も(死後には)横たわるのです。従って、真我(アートマン)は身体を離れて不死となり、生気となり、ブラーフマンとなり、光となるのです(と、ヤージナヴァルキァ師がいった)。

(その時)ヴィデーハ国のジャナカ王は「私は尊きあなた様に雌牛千頭を差し上げます」と言ったのです。

(Br.IV.iv.7)

その中の天と地、そして気界とが、すべての生気をともなった意思と共に織り込まれているもの、それだけが唯一の真我(アートマン)だと悟れ。これ以外の言葉を捨て去れ。この真我こそ不死の境地との間に架かる橋である。

(Mu.II.ii.5)

「バラモンはこの理(ヴィジュナーナ)を知りし後、智慧(プラジュナ)を求めて生きるべし。発語の力尽きるゆえ、多語に思いを馳せらすべからず」

(Br.IV.iv.21)

賢明な婆羅門は、それ(アートマン)を識別し、理智を働かすべきである。多くの言葉を考察すべきではない。それは実に言語を疲労させるだけである。

(Br.IV.iv.21)岩本裕訳

今回の二節を要約すると

天啓聖典にも、悟りを得た聖賢方によっても、前節の記述の内容は知られていると、記されているから安住の地はブラーフマンである。

『ムンダカ・ウパニシャッド』第三遍第二章8節においては、そのお方、つまり、ブラーフマンは、意思からなる(マノーマヤ)である、要するに、対象をもたない純粋な意識であるとし、また、プラーナの導き手とはエネルギーの導き手でもあり、肉体の導き手でもあり、食べ物の中にも入っているので(水を飲んだり、野菜を食べたり、穀物を食べたりしても)それらの中に神様は入っていて心臓を動かしている、と述べています。

ですので、昔のインドの人たちの考え方として、心臓が止まったときにその人のアートマンは(この世界においての)活動を止めたと考えていたようです。心臓が完全に止まったときに人間は死んだという考え方です。

ヴェーダーンタ(ヨーガ)の考え方ですと、心臓が動いている限り、つまり、瞳孔が開いていて刺激しても何の反応がなくても、人工心肺がつけられていて肉体が温かく無反応な状態でも、アートマンはそこに存在しているとしているようです。

『ムンダカ・ウパニシャッド』第二篇第二章9節においては、より高きものにして低きものであるブラーフマンが悟られたとき、もしくは、認識されたとき、心臓に無智さの結節(だま=智慧の伝導を滞らせる不純物)が無くなり、すべての疑念が晴れて行為(カルマ=業)も尽きてしまうということですが

つまり、私たちの行為の原因となっている因縁が無くなってしまう、今まではその(無智さによって作り出された)原因によってなんだかわからないままにやむにやまれず突き動かされて何かをしなければならなかった行為が無くなってしまう、そして、ブラーフマン(神様)そのものが智慧であり私たちの大元(出自)に行き着くのですべての疑念が晴れてしまう、ということです。

第三篇第二章8節においては、名称(ナーマ)と形態(ルーパ)が海に流れる川のごとくに無くなってしまう、そして、聖なる神我(プルシャ)に達すると述べられていますが

このナーマは、英語になってネームであり、インドから東に来ることでナーマがなーまーえになって名前になったとも言われていますけれど

私たちは無智さによって心臓に結節というだまが滞っているので、この名称と形態に執着することになっています。この世界においては、名称と形態による区別の中で生きざるを得ないわけです。

しかし、賢者方にとって、この名称と形態に執着することなく神我(プルシャ)に達したままに区別無く、つまり、たとえるならば、私は医者だからあなたの病気を治してあげるという壁というか垣根が無くなる、結節が無くなることで共通のアートマンでイコールとして、医療者のできることを為し、患者は治癒できることを為すということになるわけです。

『ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド』第四篇第四章7節においては、今まで論じたことごとと、「無智とは、自己ではない肉体などについて、自我を楽しませる観念を抱くことで成り立っている。この自己同一化の結果、その肉体を崇拝する者への愛と、その肉体を侮辱する者への憎しみ、そしてその肉体の死に気づくことによる恐れと混乱が続く」(本文引用)と合わせて熟考すると、不死についていろいろと考えが及ぶことでしょう。

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