罪とは無縁の聖者について
まずはじめに
ジャナカ王に授けた教説「真我を悟る聖者とは?」でブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッドのヤージナヴァルキァ師がヴィデハ国ジャナカ王との謁見での対話をご紹介いたしましたが、再びその一部を引用し、聖者についてご一緒に考えてみたいと思います。
罪な行為と善き行為に心惑わされない理由!
■聖者というものは…
下記にてヤージナヴァルキァ師の教説を引用します。
この教説は、前の「真我の外形たる人は、行う通りに成り、行為の通りに成る」と言った後で、例えとして、「善い行いをするものは善人に成り、悪い行いをするものは悪徳な者に成ります。有徳の行為をする者は高潔な者に成り、邪悪な行為をする者は悪徳な者に成ります」と説明しています。
そして、人は自らの欲望に従って決意したように行為し、その行為に相応した人に成るのだが、諸欲を持たない者、つまり、聖者は、諸欲から自由であり、すべての欲が満たされている。なぜならば、絶対者ブラーフマンと合一しているからに続く教説となります。
ヨーガにおいて、瞑想の中のテーマとして、どのような状況においてどのような思いに心を翻弄されたのか?について調べることがあります。それは、聖者がいわゆる二極の対立する感情に心惑わされることがなく、それらの思いを超越することが可能だからというのが、この教えからわかります。
■罪と攻撃について
『自分は罪な行為をした』の「罪」について考えてみましょう。
この教説において「罪」の反対を「善い」としていますが、あえて、「無垢性」や「無罪性」として考察してみます。
「罪」とは悪いものであり、敵として認定され攻撃対象となります。また、裁かれる対象ともなりますのは画像の十字架を背負わされている絵からしてもそうなっていることがわかります。
もしも、自らを「霊」であり「真我」として認識することを放棄し、そして、そのことを「罪」であると解釈しているならばどうでしょうか?まったく、身に覚えのないことかもしれませんが…
自らを「罪」があると断罪したならば、「無垢性」や「無罪性」を失うことが必須となるので「弱く」そして「脆く」なってしまいます。
しかし、その「弱さ」や「脆さ」を隠さなければ生きていけないとしているのが、聖者ではない私たちだとしたら、どのようにして「それら」を隠すのでしょうか?
この問いについて、先を読まずに眼を閉じて瞑想して考えてみるのも良いかもしれません。
心当たりが思い浮かんでもさっぱり何を言いたいのかわからなくても大丈夫です。
おそらくですが、その「弱さ」や「脆さ」を隠すために他の誰かや状況などを攻撃することで、自らの「強さ」を誇示しているのかもしれません。
自分のこととして当てはめるのが苦手な方は、テレビをつけてワイドショーを見れば、そこには誰かを攻撃している場面があるはずです。
■罪なき者である聖者は…
賢い方々は、この話しの流れからどのように着地させるのかをお見通しだと思います。
聖者は、自らを「霊」であり「真我」として認識し絶対者ブラーフマンと合一しているので、「弱さ」や「脆さ」となる「罪」が実在しないことを知っている。すなわち、「敵」はいないので攻撃できないし、もとより実在しないものを隠せるはずがないことも知っている。
逆に、私たちは、「弱さ」や「脆さ」が隠蔽できると、また、「敵」がいると信じているので、「弱さ」を信じていることになっています。
たぶんですが、「弱さ」を信じることによって私たちが弱き者に成ることは、神つまり絶対者ブラーフマンの意志ではなく、神の意志に対立するならば、神の「敵」と成り、神を恐れることになってしまいます。当然のことですが、神の意志に対立することは「強さ」ではないと言えます。
最後に
画像の絵は、罪の象徴としての十字架を背負わされているように解釈されていますが、このことは、教団組織として運営し拡大する上で都合が良かったのかなと思っています。
罪なき者である聖者は、胸を張って栄光の中を歩くはずだからです!