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安倍公房『他人の顔』 & ドゥルーズ+ガタリ 『千のプラトー』

ドゥルーズ+ガタリは、1980年出版の『千のプラトー』において次のように書いている。



顔を解体すること、これは決してささいなことではない。狂気に陥る危険も多分にある。精神分裂病者(ママ)が自分の顔についても他人の顔についても等しく、顔の感覚をなくすと同時に、風景の感覚、言語と支配的な意味作用の感覚を失うのは偶然だろうか。つまり、顔とは一つの強力な組織作用なのだ」(訳書p.213-214 原書p.230.) 

一方、『他人の顔』のラストはこうである。


「ともあれ、こうする以外に、素顔に打ち克つ道はないのだから、仕方がない。むろん、これが仮面だけの責任ではなく、問題はむしろぼくの内部にあることくらい、知らないわけではないのだが……だが、その内部は、なにもぼく一人の内部ではなく、すべての他人に共通している内部なのだから、ぼく一人でその問題を背負い込むわけにはいかないのだ……そうだとも、罪のなすりつけはお断りだ……ぼくは人間を憎んでやる……誰にも、弁解する必要など、一切認めたりするものか! 足音が近づいてくる…… だが、この先は、もう決して書かれることはないだろう。書くという行為は、たぶん、何事も起らなかった場合だけに必要なことなのである」(p.283-284.)


凡庸さは、顔の支配の終わり=非人間性を「目指す」ところにある。無論ドゥルーズ+ガタリもそのことはわかっている。しかし、安部公房は、24歳のとき、こう書いていた。

終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ」(『終りし道の標べに』1948)

参考



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