『フーコー』by ジル ドゥルーズ & ドゥルーズ のフランシスベーコン論を巡るスケッチ
Reviewed in Japan on August 7, 2004(一部改変)
これだけは、つまり他のDeleuzeのテキストを断念してでも読む価値がある。少なくても、アクチュアルであり続けるだろう。
ここで「アクチュアル」という意味は、仮に現存する全てのDeleuzeやフーコー、また彼等に関するその他のあらゆるテキストがその記憶とともに消え失せたと仮定して、そんな状況にある人が本書を手にとって読んでも、やはり自分自身の生存に関わる刺激をきっと受けるだろうということである。ほんの一文、あるいは一節にかもしれないが。
以上アマゾンレビューから転載
以下過去ツイート 2017/10/11-11/11(一部改変)
ドゥルーズのフランシスベーコン論『感覚の論理』における肉と骨の二項対立的な序列化は極めてカトリック的に見える。
科学主義的な観点からではないが、フランシス・ベーコン論においてドゥルーズが「情動が、つまり「感覚」が」と言い換えるとき、彼は例えば頭頂葉と大脳辺縁系との差異と関係についてどう考えていたのだろうか?
というのもドゥルーズは本書でしばしば「神経系統(に対する直接の作用)」や「脳」というフレーズと単語を使用するからである。現在ならむしろ生体政治工学的介入が切迫した問題となる。
ドゥルーズのフランシス・ベーコン論における感覚、情動、神経系統といった用語との関連で言えば、ドゥルーズによる前掲書をはじめとする現象学の劣位化は慎重に受け止め吟味する必要がある。
いずれにせよ、ドゥルーズが自らと差別化したかったのはなんといっても現象学だろう。他方ウィトゲンシュタインについては言及あるいは考察が少ないので何とも言えない。
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