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あいまいなもの③―アジャン・チャーのマインドフルネスにまつわる講話

これからご紹介するのは、20世紀にタイのみならず、西洋でも大変尊敬され、瞑想の名師であったアジャン・チャーの名で親しまれてきた(アジャンはタイ語で先生の意)、プラ・ボディニャナテーラ師の講話です。アメリカ人の僧侶であるタニサロ比丘が翻訳し、無料冊子に収められているものです。以前ワット・ナナチャートでいただいたものなのですが、仏教の知識がなくても大変わかりやすく面白い内容でしたので、抜粋して日本語翻訳いたします。アジャン・チャーのシンプルで深い洞察、アジャン・タニサロの繊細な言葉えらび、ふたりの素敵なエッセンスが伺える短くも奥行のある一冊です。
(著作権)Not for Sure, Venerable Ajarn Chah, translated from the Thai by Thanissaro Bhikkhu for free distribution, copyright © 2007 The Sangha, Wat Pha Nanachat, Warin Chamraab, Ubon Ratchathani 34310, Thailand

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ここで簡単な例を考えてみよう。あなたに子供がいたとしよう。その子が必要なのは愛情だけで、憎しみは一切知らなくていいというよくある極端な考え方だ。これが物事の二面性を理解していないということだ。

愛情を選択したそのときから、必ず憎しみもついてくる。だからあなたたがダンマに精進したいと心から思うのであれば、洞察力を培わなくてはならない。良く見えているものがどうしてそう見えるのか学びなさい。悪く見えるものも同じ。できるだけ細かく考察しなさい。そのうえで良いと悪いに親しんでいくと、あなたは何を選ぶ?またここで良いことを選んでも、必ず悪いことがついてくる。それは良くも悪くもないものを考察し忘れているからだよ。あなたたちが必死に学ばなければならないのはこの部分だよ。

『こんな風になるんだ』、『あんな風になるんだ』とみなよく言うけれども、『何者でもない者になるんだ、だってどれも自分じゃないからね』と言う人は少ないし、それを学ぼうとする人もいない。みな良いことだけが欲しい。そしてもし良いことが手に入ったら、それに夢中で分かろうとしないだろう。だけどその良いことがピークに達すると、後は悪いようにしか見えない。そうやってわたしたちは右往左往してるんだ。

わたしたちは印象が起こっているありさまを察知できる状態にするために、まずマインドを休ませるんだ。その本質を見るためにね。だから頭の中で何が起こっているのか継続して追跡するよう、追跡することで何に気づいているか知るように教えられてきた。マインドを純粋に保つよう鍛錬しなさい。じゃあどのくらい純粋にしたらいいだろう?もしマインドがとても純粋な状態であれば、良い悪いという基準を超えて、純粋という基準すらも超えているだろう。そういうこと。これで悩みごとはすべて終結する。

あなたが座って一点集中しているとき、それは一時的な平穏だ。平穏なときに、問題が浮上する。もし問題が浮かび上がってきたら、その問題を自分はどういうものだと思っているのか自答して、その答えを洞察するってことを試してごらん。もしマインドがただの白紙の状態だったら、何もならないじゃないか。よくマインドを強制的に白紙の状態にしようと試みる人がいて、それが正当な練習法だと思っている人がいるけれども、そうじゃない。何も起こらなくて平穏なことが心の平穏ではない。『穏やかで、快適な状態だけを手にしたい、ストレスや苦しみはいらない』と思うだろう。だけどその場合、一旦何も起こらない平穏な状態になって、穏やかで快適なものだけを保とうとすれば、だんだん不快になってくるだろう。不快は快適さの裏側で眠っていただけ。だからやっぱり快適でも不快でもないものを探しなさい。そうすれば、そこに本当の平穏があるのだ。この課題について学ぼうとし、理解しようとする人は少ないけれどね。

マインドを正しい方向に鍛錬するには、洞察力を培って、マインドを明白にしなければならない。ただ座るだけでそれができると思ったら大間違いだよ。それだと草の上の岩と同じだからね。みなよく座ることイコール瞑想のように考えるけれど、それは早合点だよ。座るのが瞑想という意味なのではなく、マインドが集中していれば、歩いていていても、座っていても瞑想になる。―それは歩く、座る、立つ、横になるという状態にも同じように言えることだ。これが瞑想。

サティパタナ・スッタの中で、サティ(気づき/集中)を培う行=サティパタナは座る、歩く、立つ、横になるのそれぞれ4つの状態で鍛錬することが説かれています。上座部文化圏で親しまれているお経『カラニヤメッタ・スッタ』の中にも『ティッタン・チャラム・ニシノ・ヴァ・サヤノ・ヴァ・ヤヴァタッサ・ヴィガダミド』というくだりがあり、立っていても、歩いていても、座っても、横になってもいつもどんなときも気づいている』という意味です。

『わたしは座っていると家のことや家族のことなど、あれこれ考えてしまってイライラして全然瞑想できません。わたしは業が深いので瞑想できません。まずそのことをクリアにしてから帰ってきます。』と言う人がいるけれども、そう言うんだったら、好きにすればいい。その深い業とやらがつきる日を待ってればいいよ。

よくある話だよな。何でこんな風に考えるのかな?あれこれ考えている状態について学ぶために座っているのに。座るやいなや、マインドは勝手に広がっていく。それを追跡して、見失わないようにする…だけどまたどこかへ行ってしまう。この繰り返しが学びそのものだ。だけど多くの人がこれをさぼりたいと思う。勉強したくない子供が学校のクラスをさぼりたいと思うのと同じだよ。わたしたちはしあわせな状態や、反対に苦しい状態の時は、自分のマインドを目の当たりにしたいと思わない。それが変化する様子を見たいと思わない。だけど、だったらいつそれをするんだ?

あなたはその変化の様子を見るために座るのだから、逃げてはならない。それについて知っていくのが瞑想だ。『ああ、マインドというのは今これを考えていたかと思えば、次の瞬間には別のことに移っている。これがマインドの正体なんだな。』と知っていきなさい。良い悪い、正しい間違いを判断することが、どういう状態なのか知っていきなさい。マインドがどんな茶番を繰り広げているのか、私たちが察知している時、ただ座っているだけでも、あれこれ考えている状態でも、マインドは集中していることになる。もしこれがわかっていれば、イライラしたり、集中できないなんてことはない。

ここでひとつ例を挙げよう。家でサルを飼っていたとする。サルはじっとしていない。あっちこっちに飛び跳ねて回って、あれこれ取ってくる。これがサルというものだ。今あなたはお寺にいるけれども、もしサルがここにいたら?このサルもじっとしていないだろう。同じように飛び跳ね回り、あれこれ取ってくる。だけどそれにあなたはいちいちイライラするかい?しないだろう?なぜイライラしないんだ?というのもあなたはサルはそういうものだと知っているからだ。もしサルの性質を一匹でも知っていれば、どの地方に行ってサルを見ても、どれだけたくさんのサルがいても、サルはそういうものだと思って気にならないだろう?これがサルの正体を知っているということだ。

サルの正体を知っていれば、自分がサルになることはない。反対にサルがどんなものか知らなければ、サルを見るやいなやあなたもサルみたいになるだろ?サルが何か取っていったら『ギャー!』と怒って騒ぐ。『このサルめ!コノヤロー!』となる人は、サルの性質を知らない人。でも家でサルを飼っていたりして、サルがどういう性質か知っている人からしたら、ここの寺にいるサルも同じ。わざわざ騒ぐようなことじゃない。サルがどういうものか知ってさえいれば、騒ぐことがない。サルが走り回っていても、サルだけがに走り回って、あなたはサルみたいになって一緒に走り回らなくていい。たとえサルがあなたを跨いで飛び越えていっても、イライラしなくていい。というのもあなたがサルがどんなものだか分かっているから。だからあなたはサルのようにならなくていい。でもサルを知らなかったら、自分もサルのようになる。―わかるかい?これが平穏を培うということだよ。

④へつづく↓↓↓↓↓


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