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『祈りとはマインドフルネス』=ダーマ・チャクラの回し方

日本では宗教の話はタブー(欧米でも避ける人は比較的多い)でありながらも、『かみさま』という一神教も多神教もごっちゃになったようなあいまいな観点から、何か困ったら手あたりしだい『神頼み』するというのは、不思議ですが、わりと普通の光景として受け入れられています。

日常の中で神さまのことなど、今までこれっぽっちも気に留めていなかったのに、困ったり、エネルギーが欲しくなったときには、突然もらいに行くわけです。効くか効かないは置いておいて、神だのみってとっても便利なものです。

浄土系には『他力本願』という言葉がありますが、縁起というものは、自分だけの力では捉えられないくらい複雑で、宇宙全体がつながって動いているということを認識すること、自分のちっぽけさを知るという意味であり、困ったら誰かにどうにかしてもらうという意味ではありません。ですが現代の神だのみは、気づきや謙虚さを取り戻す行為というよりも、都合の良い責任転嫁の要素のほうが大きい気がします。

最近はこういう状況ですから、祈る人、神さまに頼みたい人も多いと思います。でも考えてみてください。それってすごく虫が良い話だと思いませんか。

そもそもどうして縁起の具合がこんなことになってしまっているか原因を考えてみると、やっぱり同じ『都合』が原因です。わたしたちは自分たちの都合を優先して、ものごとを進めてきた結果が今の状況です。『一日も早く…』とお祈りして、都合どおり元の生活に戻ったら、わたしたちはまた祈ることを止めてしまうでしょう。

だからと言って頼むな、と言いたいわけではありません。頼むんだったら、本来の『他力本願』の意味を思い出してください。そして祈りが叶ったあと、祈ることを止めてしまうのであれば、わたしたちはやはり何も学ばなかったということになって、またいつか困ったことがやってくるでしょう。

誰かに頼んで安心できる環境が戻ってくるのを待つのではなく、わたしたちの中に潜む『無知』=勘違い、無関心から選んでしまったものに気づき、それを修正しない限り、神頼みはただの都合であり、効果は期待できないかもしれません。

何度も言いますが、だからと言って頼むな、祈るな、と言いたいわけではありません。むしろその反対です。今だからこそ、本気で祈ってほしい。

祈るという行為は、自らのエネルギーを一方方向に注ぐという、マインドフルネスの一部です。わたしたちの行動・感情・マインド・自然の法のあらわれの4つを意識せずに祈りは起こりません。わたしたちが縁起の相互作用の中で生きていることを認識したときに、純粋な意識のエネルギーをその方向に向けることができるものです。そうすることで、わたしたちが回している命の『輪』(ダーマ・チャクラ)を純粋な方向へ転がすことができ、縁起の具合を整えることに繋がっていく=祈りが届くのです。

わたしたちが毎日受け取っている現実は、過去の結果報告のようなものです。データ解析をして、命の輪の転がっていく方向を修正することが、よりよい世界を作っていく祈りとなります。

『一日も早く元の生活に戻りますように。』だと命の輪が転がって行く方向は変わりません。なので今日はひとつ、どうやったら命の輪が転がっていく方向を変えることができるかを考えてみてください。

それが本当の祈りへと繋がっていく近道です。


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だるまいこ | 仏教学者のインナーセンスオブワンダー
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