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フィクション沼 輪廻からの解脱

こんにちはトミボーディです☺️

さて前回フィクションの話をいたしましたね

今回は「フィクション沼」について少し丁寧に話をしていこうかとおもいます

この世界はフィクションである

というのも我々は虚構、妄想、幻想の中を生きているからなんですね

これは何百万年もの進化の歴史を得てもなお人類は変わらずフィクションを生きていますし、何億年と生命はその「輪廻」を繰り返しています

今から2500年前にインドにブッダ、ゴータマシッダールタ(ブッダの本名)が誕生した時も相変わらずフィクションの世界でした

シャカ族の王族、王子に生まれたゴータマシッダールタは若い頃からある「違和感」を感じていたんですね

というのもこの当時のインドは「ウパニシャッド」というバラモン教の世界観がありまして、梵我一如「アートマン(自我)」と「ブラフマン(大我、宇宙)」があると信じられていたんですね

今でいうところの「迷信」なんですが、ブッダはなんかこの世界観はおかしいなぁと思っていたんです

王太子であるシッダールタさんは帝王学や武術、宗教学と学問から武道まで勉強したんですね
快楽悦楽といえる娯楽も与えられ何不自由無い生活を過ごしていたんです

しかしシッダールタさんは「生老病死」という逃れられないものがあるんだと気づいて大変ショックを受けます

お妃や子供もいたんですが、30歳の頃にとうとうこのままではダメだ!と決意をして出家しました

この当時の出家というのは「バラモン階級」の家系の人にしか許されていないんです

古代インドではヴァルナというピラミッド型のカースト制の分類があるんですが上位階級からバラモン(宗教祭祀)、クシャトリア(王侯貴族)、ヴァイシャ(一般市民)、シュードラ(奴隷)、ヴァルナに属さないアウトカーストのアチュート(不可触民)とあります

今から3000年以上前にイラン高原からやってきたアーリア人(白人)が西インドのインダス川流域に移住してきたんですが、彼らはインドにいた原住民のドラヴィダ族達諸部族を侵略し同化していきました
ドラヴィダ族は肌が褐色だったこともあり差別されたんですが、哲学であり宗教のウパニシャッド(バラモン教、後のヒンドゥー教)が彼ら西方からの侵略者アーリア人の正当性を担保したので人類史上稀に見る非人道的非人権的な階級制が生まれてしまったんです
現代でもヴァルナの名残りはありまして、特にアウトカーストの不可触民はインド社会で大変大きな問題になっています
近年ではこの不可触民達を中心として仏教再興運動が起きてるんですが、それはブッダが最初に行なったインド社会の改革、革命の再興でもあるんです


さて話に戻りますが、ゴータマシッダールタさんはクシャトリアの身分ですので本来は上位カーストの「バラモン」にしか許されていない出家は基本的にはできないのです

ですが、それでもシッダールタさんは出家し、というより修行者、求道者となり王宮をでて旅にでました

父王のスットーダナ王は大変悲しんだんですが、王族直属のバラモン階級にある僧侶5人をシッダールタさんにお供させたんですね


はい、ここまでブッダの悟る前のお話を簡単ですがお話したんですが、もうだいたいお分かりかと思います

若き日のゴータマシッダールタさんはその当時「絶対」とされていた「階級」や人種差別、自らの「王族としての身分」を棄てて旅にでたんですね

当時ではウパニシャッドの世界は絶対権威であり全てだったんです

またシッダールタさんは王太子であり国王になられる身分です

これこそ「フィクション」です

この「フィクション」をまず「全否定」したんですね


そしてシッダールタさんは5人の仲間達と修行を共にします
いろんなその道を極めた長老や覚者の元で弟子入りしたり議論を交わしたりしました

やがて5年ほどの月日が経ち、6人の若い修行者達は厳しい「苦行」に入ります

この時代の修行の定番が「苦行」なんですね

「苦行」をして徹底的に身体を虐め抜いた末に辿り着く究極のサマーディの境地にこそ「悟り」があるというのがこの時代の「常識」だったんです

これが最後の修行だと、シッダールタさん達は頑張ったんですね

断食をして水も飲まずにずっと瞑想をして文字通り骨と皮になるまで限界ギリギリ、死にかける直前までやったんです

その結果「意味が無い」と悟ったんですね

つまりやり過ぎるのも、やらなさ過ぎるのも違う

「中道」が正しいと理解したんです

これは即ち「苦行」という「フィクション」が間違っていたと認めたんですね


現代でも日本の真言宗や天台宗でもブッダの追体験として苦行はしますし、インドのヒマラヤ地方では「サドゥ」というヒンドゥー教の苦行者がいます
極限まで髭や髪の毛、爪を伸ばしたり四半世紀逆立ちし続ける修行とかとにかく極端なことをします
バカなんですね

ブッダは死ぬ直前まで断食をして苦行をやったんですが、現代でも同じ様に極限、極端な修行がなされてるんです

これは何故かというと「人間は鈍感」であるということなんです

あのブッダでさえ命を落とす寸前まで鈍感だったんです
しかしギリギリのとこで今自分がしているのは

「フィクション沼」

だと気付いたんですね


この「フィクション沼」はめちゃくちゃ恐ろしいんです
なぜなら「絶対という信仰」だからです
盲目的というか、理性的ではないので大概破滅するんです

今のイスラム教過激派もそうですしキリスト教の原理主義者も大概破滅的なんです

その証拠に「ハルマゲドン」という逝かれた発想が生まれるんです

精神が壊れてしまって極端な発想や行動に走るか、またはキチガイになるんです

ですのでブッダも危うくそうなりかけたんですが、直前で気づいてやめたんです

そして相変わらず苦行のフィクション沼に浸ってる5人の仲間達と別れ、死にかけのゴータマシッダールタさんは、とある村でスジャータという娘に乳粥の施しを受けて生気を取り戻します

(ちなみにブッダが「苦行」を辞めたとき5人の仲間達はブッダを馬鹿にし、侮辱の言葉を投げつけ散々酷い扱いをしたんです
「フィクション沼」にどっぷり浸かるとそうなるんです)

スジャータさんから乳粥を施され生気と体力を取り戻したシッダールタさんは再び瞑想に入るんですが、この時した瞑想が「ヴィパッサナー瞑想」だと言われています

瞑想を続けるにつれ深い禅定に入り観自在の境地、フィクションからノンフィクションへ

決定的に立ち位置が変わったんです

それは「目が覚めた」とも表現されます

フィクションという幻想、夢、虚妄、妄想、妄執から完全に目が覚め全てが明らかになり「決着」がついた「解決」したんですね

この時初めてゴータマシッダールタから

「ブッダ(目覚めた者、正自覚者)」となったんです

もうフィクション沼に苦しむ一人の青年の姿はそこにはないのです
輪廻に苦しむ青年は過去の者となり、輪廻を止めて解脱したんです

これが人類史上初めての「悟り」だと言われているんですね

それは何百万年、ホモサピエンスが繰り返してきた「進化の代償」としての「フィクション(虚構)」から、大脳皮質の能力を最大限に使い「理性」でもって輪廻から解脱し新しい次元のノンフィクションな在り方へと初めてブッダは歩んだのです

プロジェクトXなんて目じゃないんです

ですからこんなブッダでさえも「フィクション沼」に危うく飲み込まれかけたんですから

私達はもうフィクション沼そのものかもしれません笑

いまでも天台宗やら真言宗の修験者や行者が苦行をしますが「ブッダの追体験」という大義名分でやってますが、あれはヒンドゥー教のヨガ学派とかの要素が混ざってるだけで本当は「鈍感」なだけなんです

禅宗の曹洞宗の総本山「永平寺」でも雲水達は毎日修行を積んでるんですが、整理整頓はもちろん靴の並べ方、食事の作法、衣食住全てきめ細かくルールがあるんです
それは「我を棄てる」という事もあるんでしょうし徹底して真似をする事で本物になるという考えもあるそうなんですが、つまるところそこまでしないと人間はどうしようもない「鈍感」だという事だと私は思うんです

「鈍感」というのはそれだけ身体や心に「フィクションの習慣」が染み付いてしまってるんですね

落とそうにもなかなか落ちない

だからブッダでさえも死ぬ直前までフィクション沼に苦しんでいたんです

ですがブッダは初転法輪といって悟ってから一番最初にサルナートという場所で共に修行した5人の仲間達に説法をするんですね

その時の内容が「四聖諦」「八正道」「中道」なんです

これさえ気をつけて修習し修行に励めば必ずフィクション沼から抜け出して輪廻から解脱できますよ!っとブッダは我々を激励してるんです

もう少しいうと「フィクションの習慣(癖)」から少しずつ少しずつブッダが推奨する「四聖諦、八正道、中道の習慣」に変えていく事で一歩ずつ、半歩ずつでも「立ち位置が変わっていく」という事ですね

そういう意味では曹洞宗の永平寺の修行は的を得てるのかもしれませんが、少しずつどころかいきなり全力な感じもしますからなんとも言えないですね笑

「習慣(癖)」はなかなか抜けないというか落ちないですから少しずつが一番いいのかなと個人的にはおもいます
せっかく人間に生まれたんですからこの上ないチャンスというか幸運なんですね
ましてやいまは21世紀ですから科学も発展してるのでブッダの時代よりも阿羅漢がでてきてもおかしくないとさえ言われているんです


では今回はこの辺で終わりたいとおもいます


(2020年8月の記事から)

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