瞑想とは 安らぐ在り方
こんにちはトミボーディです。
さて、皆さん瞑想というとどんなイメージがございますでしょうか?
呼吸をしながらゆっくり精神を集中させたり、心を安らげたり、或いは神秘的体験をするようなイメージがあるかもしれません。
いずれのイメージもおそらく瞑想で経験するかもしれません。
ですが、いろいろなメソッドがあって宗教や宗派によってはかなり違いがあるのも確かですね。
仏教の瞑想でもかなりのメソッドがあって、ブッダは約2000もの瞑想法を伝えたといいますから本当に様々なメソッドがあります。
しかし結論から言うと仏教の瞑想では何をしているの?、といいますと「心の現象、身体の現象があるだけだ」という事を確認しているんですね。
坐禅をしますと脚を組んでいるのでどうしても「痛み」があります。
また皮膚の痒みや痺れ、身体の節々に感じる感覚、呼吸の際の空気が鼻頭や鼻の入り口、鼻の中に出入する感覚、横隔膜が呼吸によって上下する感覚があります。
それらは全て「身体の現象」です。
また瞑想中には様々な心の経験をしますが、雑念、妄想、所謂心のお喋りですね、それから快不快、喜怒哀楽の感情、過去の記憶、様々な念が頭を過り集中を妨げます。
これらも全て「心の現象」です。
仏教では名色(ナーマ・ルーパ)、名は心の現象、色は身体の現象といいます。
様々な経験をするが結局この「名色」があるだけだというのです、そしてもっとこの名色を細かく分析すると
五蘊(色受想行識)があるだけであるとなるのです。
つまり五蘊があるだけでただそれだけの事ですと、心や身体の現象は五蘊の働きであり、つまり五蘊しかないと。
いろんな思いや感情、快不快の感覚、痛覚、全ては自分の「執着」から起きる幻で余計なものというか、本当は現象が淡々と起きているだけという事ですね。
それを瞑想で観ていく、洞察していくというのが、マインドフルネス、ヴィパッサナー瞑想です。
ここで少し私が幼少期に体験したお話を交えてさらに深く瞑想の解説をしていきましょう。
私が記憶しているのは小学生の低学年くらいの時なんですが、祖父母の家によく遊びに行っていたんですね。
その日は外は雨が降っていたんです。
私はお座敷の部屋にいたのですが、お庭に通ずる引き戸の側に座っていたんです。
引き戸のガラスは大小の水滴で曇っていてスモークがかかっている
時折まとまった水滴が下にツーと落ちてくるんですね。
私は確かその曇ったガラスに絵を描いたりして遊んでいたんですが、ふと斜め下を見ると「ティッシュ箱」がありました。
私は咄嗟にティッシュをササっと手に取り引き戸のガラスについた水滴を拭って綺麗にしようとしました。
しかし何回やっても一瞬外のお庭の景色が見えたかと思うとすぐにまたスモークがかかりまた水滴が落ちるような具合で私は何回もティッシュを取ってはそのスモークを何とかしてやろうとガラスを拭いていました
しばらくすると祖父がやって来て「こらー!お前はあほか!」とこっ酷く叱られたんですね笑
さてこの私と祖父のエピソード、瞑想と同じやなぁと思ったんですね。
つまり私達は幼少期の私と同じように、心を曇らせている様々な「現象」を取り除こうとしたり、また絵を描いたりするように自ら「ストーリー(妄想)」を描いたりします。
瞑想なんかとくにそうです。
悟ってやろう、神秘的な体験をしたいなぁとか何かをしないといけないこうしないとダメだ、というような気持ちで心の曇りを晴らそうとします。
しかしそれは幼少期の私がティッシュを手に取り曇ったガラス戸を必死に拭こうとする事と同じですね。
つまり、私は「なぜ引き戸のガラスが曇っているのか」という「原因、条件、結果」の因果を知らないが為に何回も何回もガラスを透明にしようとティッシュを消耗したんですね。
ですが、外は雨が降っていたので家の中との温度差で引き戸のガラスが曇っているのはいうまでもありません。
その「現象」の仕組みを理解すれば、雨が止むのを待てば良いだけです。
この世界は無常ですからいつかは雨は止んで晴れてくる、すると祖父が手入れした日本庭園がパーと引き戸のガラスの向こうに見えてくる
瞑想も同じです。
Do Do Doと忙しく何かをしないといけないという在り方から「離れる」
ある日本人比丘(*)の法話で良く話されるワードなんですが
「Doing Nothing」
何もしない
本当に何もしないのではなく、この場合だと現象を現象だと知って現象のまま現象によりそう
現象だと知っているなら何もそれ以上の事は起こらないし起こる必要がない
わかりやすい例えをこの日本人比丘がしていました
「瞑想は箸休め」
迷い箸になったりがっついたり、メニューの時点で何を食べようか食後のデザート食べようかなぁと迷ったりする笑
そうではなく、箸休めをする
安らぐ
そうすれば、そこに迷いは無い
引き戸の話ですと外は雨が降りガラス戸にも水滴がついている
指でそこに絵や文字を書いて遊ぶ事も無いし、ティッシュで水滴を拭う、拭く事も無い
天気が良くなって晴れるのを待つ
その瞬間、安らいでいる
Doing Nothing
ありのままでいい
箸休め
すると次第に曇りが晴れて智慧(パンニャ)が現れてくる
瞑想というのはそういうものである、といえます
これはタイの森林派の比丘に伝わる古い瞑想です
ですが、実は日本にも馴染み深い、禅宗の坐禅も基本的には同じなんですね
先程のを禅的な言い方でいいますと
静寂と自分が同一になる
この静寂が本来の面目であり仏そのものである
仏そのものであることにただ気づく
すると曇りは晴れ疑いは拭え
綺麗な仏国土(日本庭園)が現れてくる
自分の中に仏を観る
自分自身が仏である
そう考えますと、まさに私の祖父が「こらー!お前はあほか!」と言ったのは禅僧の一喝ですね
まぁ本当にアホでしたのでその時はポカンとしていましたが☺️
雲水でしたらもしかしたらこれで悟っているんですね
同じ様な話が唐代の禅宗にありますのでそちらをご紹介して終わりましょう
「南獄磨瓦」
馬祖道一がまだ修行に励んでいた頃、馬祖禅師は悟る事で必死で毎日坐禅を行じていました。
ある日お師匠様である南獄禅師が坐禅をしている馬祖の前にどかりと座り徐に「瓦」を磨き始めました。
馬祖は始めこそ無視を決め込んでいたのですが、お師匠様がいくら経っても瓦を磨いているのでとうとう声をかけてしまうのでした。
馬祖「お師匠、いったいさっきから何をされてるのです?」
南獄「見て分からんか、瓦を磨いておるんや」
馬祖「いや、瓦なんか磨いてどうするのですか?」
南獄「鏡になるまで磨くんや」
馬祖(...そんなアホな、鏡なんかになるかいな..!!?)
*文中にありました日本人比丘ですが、現在イギリスにあるアマワラティ僧院(タイのアチャン・チャー系立)の副僧院長をされているアチャン・ニャーナラトー(Ajahn Nyanarato)師です。
アチャン・ニャーナラトー師の法話会に参加させて頂き有難い教えを学ぶ中で自分自身の経験から感じとった内容をブログに書かせて頂いています。
けしてアチャン・ニャーナラトー師の見解ではありませんのでご了承下さい。
ではまた
(2020年10月の記事から)