【歴史さんぽ#1】上野に残る戦争の痕跡
東京都民の憩いの場となっている上野公園。
上野動物園や東京国立博物館など有名スポットも多い。
そんな上野公園だが、幕末から明治時代に移行する江戸において唯一戦争が起きた場所だ。
世に、上野戦争と呼ばれる。
上野戦争は、今の上野公園のある上野山に立て籠る彰義隊を、明治新政府軍が討伐した戦争だ。
戦争自体は、明治新政府軍のもつ圧倒的な兵力によって、1日で鎮圧してしまったが、その痕跡は上野の至る所に残っている。
今回はそんな知られざる上野戦争の痕跡を、実際に上野に行って撮影してきた画像とともに紹介したい。
1. 上野公園に眠る彰義隊の墓
上野公園内には、明治新政府軍によって鎮圧された彰義隊の墓がある。
彰義隊は旧江戸幕府の家臣を中心として構成された。明治新政府に対して敵対心を持った手段であり、最終的に数千人で上野戦争を起こすまでに膨れ上がっている。
上野戦争では彰義隊側が266名、明治新政府側が30名の死者を出している。
このお墓はこの戦争で亡くなった彰義隊を弔うために、明治7年に建てられた。
2. 戦争に使用されたアームストロング砲の砲弾
明治新政府軍はこの戦争を早く終わらせるため、西洋の最新武器アームストロング砲を投入した。
アームストロング砲は当時の大砲より遥かに広い射程距離を持っている大砲だ。この上野戦争では、現在東京大学がある加賀藩上屋敷から、彰義隊の立て籠る上野山に向かって打ち込まれた。
従来の大砲では考えられない場所から打ち込まれる大砲。この攻撃によって、彰義隊は総崩れになったと伝えられている。
そんな戦局の大きな鍵となったアームストロング砲だが、当時使用された砲弾が上野公園内に飾られている。
上野公園内にある清水観音堂、その境内の中にアームストロング砲の砲弾がある。知る人ぞ知る上野戦争の痕跡だ。
3. お寺に残る銃痕
上野戦争では上野山付近のみならず、少し離れた日暮里側でも戦闘が行われている。日暮里駅近くの経王寺は当時の戦闘の痕跡を残す貴重なお寺だ。
経王寺の入り口にある山門。その山門には上野戦争時の弾痕が残っている。
上野戦争が上野山のみならず、付近の街でも戦闘が行われたことを示す、貴重な痕跡だ。
4. 上野寛永寺の入口 黒門
彰義隊が立て篭もった上野山。
当時、そこには寛永寺(かんえいじ)というお寺があった。
寛永寺は徳川将軍家の菩提寺であり、当時は上野山全体が寛永寺の境内として使われていた。今も一部は上野公園内に残っているが、当時の建物は上野戦争でほとんど失われてしまっている。
そんな寛永寺だがお寺の入口に設置されていた門は、消失を免れて今も保存されている。
この門は黒門と呼ばれ、日比谷線 三ノ輪駅から歩いて数分の円通寺に保存されている。
黒門はその名の通り黒くしっかりとした門であり、当時の寛永寺の荘厳さを今に伝えている。
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今回は江戸から明治に時代が変わる節目に、起こった上野戦争の痕跡を紹介した。今は多くの観光客が訪れる上野公園だが、歴史と言う観点で散歩してみると、また違った上野の顔を発見することができるかもしれない。
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