【歴史さんぽ】江戸〜明治を通して重要な場所であった「紀尾井町」
ホテルニューオオタニや赤坂プリンスなどの高級ホテルが立ち並ぶ、東京の「紀尾井町」はまさに「東京の一等地」の印象が強い場所だ。
そんな「東京の一等地」である「紀尾井町」は、江戸時代においても「江戸の一等地」とされる場所だった。
今回は「江戸の一等地」の「紀尾井町」を歩いて、歴史の名残を探ってきた。
1. 「江戸の一等地」・・・巨大な大名屋敷が立ち並ぶ
まず町名である「紀尾井町」という名前は、江戸時代にこの場所に屋敷を構えていた、有力大名の頭文字からとっている。
「紀」は、御三家の紀伊徳川家
「尾」も、御三家の尾張徳川家
「井」は、徳川家譜代大名の筆頭だった井伊家
それぞれの頭文字にをとることで「紀尾井町」という名前となった。
紀伊徳川家と尾張徳川家は、言わずと知れた徳川御三家として有名であり、井伊家は5人の大老(江戸幕府家臣の最高位)を輩出した名門だ。
どの家も名門であったため、その屋敷も広く、現在の「紀尾井町」の区画割りは江戸時代当時からあまり変わっていない。
高級ホテルである「ホテルニューオオタニ」は、井伊家の屋敷であった場所をそのまま使っている形だ。
紀尾井町の道は、江戸時代の雰囲気を今に伝えてくれる場所でもある。
2. 明治時代、「紀尾井町」で起きた襲撃事件
江戸時代、有力大名の屋敷が立ち並んだ「紀尾井町」は、明治時代になっても歴史的に重要な場所となっていた。
最も明治新政府を驚かせた事件は、維新の英雄「大久保利通」の暗殺だ。
1878年(明治11年)の5月14日、馬車で皇居に向かっていた「大久保利通」は、「紀尾井町」の清水谷付近で不平士族6人に襲撃され、命を落としている。(紀尾井坂の変)
「紀尾井町」にある清水谷公園には、暗殺された「大久保利通」を追悼する哀悼碑が建てられていた。
また、「紀尾井町」の隣にある赤坂喰違坂では、1874年(明治7年)の1月14日に明治新政府首脳の1人であった岩倉具視が、襲撃される事件も発生している。(喰違の変)
「紀尾井町」は江戸時代や明治時代を通じて、政治的に重要な場所であった。