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書物の終焉と松岡正剛の死

1)本が終わる時代にセイゴオの訃報を聞く


松岡正剛のことはすっかり忘れていた。自分の仕事とおよそ関係がない。

現代における「仕事」とはどれも専門化されている。個々の専門という領域から見れば、松岡が書くものはどれも中途半端であり、不十分だろう。とりわけ彼が哲学書を取り上げると、どれも聞いたような解釈ばかり。「え?そんな読み方があるの?」という驚きが全然ない。レトリックが面白いだけ。

そもそも松岡が書物という形にまとめたものは余り面白くない。「千夜千冊」の魅力は、かれの肉声とでも言うべきものに貫かれていたことで、本になるとそれが消えてしまう。

それは最初期からそうで、かつて雑誌「遊」などでその語り口に親しんでいた自分は、『空海の夢』が面白くないので吃驚した。おそらく彼の初めての本格的な著作だったと思うのだが、たんなる学術書じゃん!硬直した学問を批判していたのに、これは普通に学問そのものじゃん。密教の持つ摩訶不思議さとは縁もゆかりもない。その意味では中沢新一のほうがはるかに宗教的だった。それは如実に文体に現われている。

宗教について書いても、宗教的な体験とは無縁だった。そんな体験にあまり関心がなかったのだ。かれの抱懐する美学とは宗教的体験の前で立ち止まる感性的なものである。決して超越論的なものではない。むしろそれこそが日本的なものだと彼は強弁しようとした。

松岡正剛がネットで「千夜千冊」という一種の書評サイトを運営していることに気づいたのは、かなり後だった。その頃はまだネット記事にろくなのがなかった(ツイッターも無かったんじゃないかな?)。1000冊達成ぐらいまでは関心をもって読んでいたが、その後も続けると知って、いささか辟易して読むのをやめてしまった。ネット情報が充実してきたのも大きい。ツイッターは情報の宝庫だし、読む価値のあるネット記事なら幾らでもある。YouTube も面白い。

こちらのあずかり知らぬうちに松岡の企ては1850夜まで行ったらしい。それ自体は端倪すべからざるものだ。日本の新聞の書評など全く当てにならない。読む気にもならない。これにたいして「千夜千冊」における松岡正剛は比類なき書評家だった。たとえ松岡個人の評価であったとしても、その妥当性は信頼でき、読書人の模範と見なし得た。オカルト本まで取り上げている。これだけ多方面の書評を書き続けた者は世界を見渡しても他にいないだろう。なんでギネスに乗らないんだ?と不思議に思うほどだ。

書店がどんどん無くなり、翻訳は別として、これと言って新しい本も出なくなった。書物の終焉の時代だ。松岡はどうしてるんだろう?と気になることはあったが、ひとたび「千夜千冊」を読み始めると、またしてもお付き合いせざるを得ず、だからと言って新しい知見を得られそうにもない。自分の仕事もなかなか忙しい。もはや終活の時期である。よって、それきりになっていた。

そこに訃報が届き、ひさしぶりに彼のことを思い返してみると、思春期に大きな影響を受けていたことに今さらながら思い至った。あまり昔のことなので、ほとんど忘れていた。そんな思い出を書く機会もめったになさそう。で、ここに書き記しておこうと一念発起した。

2)21世紀精神の手前に

高校を出、浪人していた10代末の頃、松岡と工作舎の本をいろいろ読んだ。雑誌「遊」や、ムック本「プラネタリーブックス」を書店で見かけるたびに買った。

なかでも印象的だったのが津島秀彦との対談集『21世紀精神』で、線を引きながら熟読した記憶がある。来たるべき人類文明を遠望する、しごく啓発的な対談だった。

相手の津島は医者で、超常的な哲学を抱懐する人物だったが、いつしか消息を絶ち、連絡が取れなくなったらしい。自分の思索が世に受け入れられそうもなく、筆を折ったということだろうか。宗教と科学のあわいを模索する、深遠な知性だった。その後オウム真理教事件もあって、宗教と科学の関係について語るような知性は絶滅した、いや「させられた」と言ってもいい。

いま検索してみると、津島さんはFacebook をやっていた痕跡がある。1992年に52歳で亡くなったらしいけど、詳細はいっこうに明らかではない。たしか娘さんがいたはずだ。

検索した際、中村先生の記事が出てきて驚いた。

セイゴオ流気体的達人指南書/中村 昇
https://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/178/

読むと自分とセイゴオ体験がだだかぶり。なのに中村さんとは松岡正剛問題について話したことが一度もない。何かのきっかけで話題に出ても不思議なかったはずなのに……中村先生はセイゴオをこの上なく評価されておられるが、自分は必ずしもそうではない。その温度差があったのかもしれないねー。「気体」の移動が行なわれなかった。

松岡正剛の名を知ったきっかけは、NHKの若者向けの番組になぜか取り上げられたからだ。自分流に何でも解説してしまう不思議な知性として紹介された。たとえば目の前にある冷蔵庫をシュールレアリスム的なレトリックで異次元の物体のように説明する。

寺山修司もそうだったし、あの時代にはそんな異能の人が少なからずいた。いわば詩人哲学者のような扱いだったように思う。だから以後、たとえば『空海の夢』のような著作をものし、なかば学術的な活躍をするようになったのはひどく意外だった。実際のところ、詩人哲学者のような如何わしい才能は世から速やかに駆逐されて行き、セイゴオは自分のそうした側面を自らに封印して行ったのだと思う。

学園紛争時代に研究会や読書会を組織して、マルクス=レーニン主義の数々の著作を同じ学生相手に噛み砕いて解説する体験を多々もった。それが知識にたいする彼のアプローチ、ようは「方法」を鍛えたに違いない。

以後も死ぬまで自らの取巻きに書物や思想や芸術を口伝するスタイルを保った。インターネットの時代に、そんなスタイルが大きく拡張されるに至った。他にそんなことが出来た人は誰もいないので、唯一無二の知識人だったことは間違いない。

大学闘争を体験した人たちの多くが、それに拘泥し、政治的な立場や思想に拘りつづけたのに対して、セイゴオは早い時期にそうした硬直的な知性のありようときっぱり縁を切った。表立って政治的なことは語らない。それにより彼のいう「遊び」が、あるいは知性の自由が可能になった。

むろんそれは政治的闘争にたいする裏切りでもあっただろう。左翼系の知識人は彼を毛嫌いしていた。いまだにそうだ。これにたいしてセイゴオは自分の出版社である「工作舎」を立ち上げ、そこから自らの著作を自由に出すことができた。大学人と編集者が癒着した日本の出版界に風穴を空けた。その意義は非常に大きいと思う。自分の著作以上に、海外の重要な著作を翻訳して紹介した。新しい本ばかりではない。ライプニッツ著作集を出版したのは、工作舎の永遠不滅の業績だろう。

遊びの反対語があるとすれば何だろうか。それはおそらく真面目なもの、すなわち政治であり、ひいては法だろう。遊びを許さないものとは厳粛なものである。かつて学問とは、そうした真面目なものと見なされていた。それは別の見方をすれば、たんに硬直したものにすぎない。第2次大戦があり、その後の冷戦下の凍りついたような世界で、社会や文化はむろんのこと、学問や知識の硬直化は著しかった。

そんな世界を笑い飛ばすようにビートルズやボブ・ディランのようなサブカルチャーのヒーローが現われた。それと軌を一にしてフランスでは現代思想のムーブメントが起こった。

19世紀的な構造に自閉するヨーロッパの大学知には腐臭が漂っていた。これを変革せんとするとき「遊び」がひとつのキーワードになった。それは硬直した政治からの離脱をも意味した。変革への衝動は世界の至るところに飛び火し、さまざまな帰結を生んだ。セイゴオはまぎれもなく時代の子であり、そうした「戦後」の知的・文化的な革新運動を日本において体現する人物のひとりである。

ところでデリダについて彼は真正面から取り上げたことがあるだろうか。面倒くさいので、ちゃんと読んでいないかもしれない。デリダの脱構築は必ずしも哲学的な方法などではなく、アルジェリア出身のユダヤ人の立場からのフランスの旧弊な知識社会への挑戦だった。ヨーロッパ中心主義の打倒を目ざす以上、それは極めて政治的な身ぶりだった。だからフランスのアカデミズムには容れられなかった。かれの動きを生前の小林秀雄も注目していたそうだが、表立って語ることはなかった。

冷戦時代の圧迫感というものを、体験したことがない世代に説明するのは難しい。というのも、それはまさに「感じられたもの」、雰囲気だったから。1989年にベルリンの壁が崩れた頃には日本はバブル絶頂期で、それ以前の時代の閉塞感を説明するのは至極難しくなった。むしろ21世紀になって、それが日本に再来している。かつてとは比べものにならぬほど日本は閉塞し、自壊し、自滅しつつある。

とはいえ、70年代ぐらいまでの日本の文化は百花繚乱で、10代の私は文学、映画、音楽、マンガと追いかけるのに夢中だった。毎日新しいことが起きていた。狂乱怒涛の70年代である。それがだんだん怪しくなってきた。世の中がお上品になってきたのである。誰もが風向きの変化を感じていたと思う。

ショックだったのは望月三起也『ワイルド7』の最終篇「魔像の十字路」(1979年)だ。日本を陰で支配しようと陰謀をたくらむ巨悪を前に、ワイルド7のメンバーが次々に葬られてゆく。かれらでは勝てないと見た上司の草波は、ワイルド7を捨て駒として使ったのだ。傷心の飛葉に本心を打ち明け、かれに後を託して、自分は敵の組織に入り込み、その内側から闘い続けると誓う。飛葉は激流のなかで眼前の敵と刺し違えながら姿を消す。

まさに70年代の祭の時代の終わりと、次に来る時代の正体を予見した作品だった。それは個々人の異能ではなく、組織こそが社会を支配する時代の始まりだった。日本の敗戦で一時期ぽっかり開いていた穴が急速に閉じつつあった。それでも70年代の余燼はしばらく燻ぶっていたが、やがてバブル期になると日本社会はすっかり変質した。ひとびとは組織に身をゆだねた。

今でこそ糸井重里は若い人からそっぽを向かれているが、そんな若連より糸井のほうがよほどモノを真剣に考えてきたのは自明だ。かれはどこかで「文化で食う」という決意を述べている。いいかえれば政治では食わない、政治を食い物にはしないという覚悟である。それを別の観点からは「文化への避難」と言ってもいいかもしれない。

松岡もまた「文化で食うこと」を自らの生き方として選んだ。先人としては小林秀雄がいたし、近いところでは吉本隆明がいた。こうした文化人たちを足蹴にするような日本の知識人や大学人はろくなものではない。かれらの多くは「ヒモ付き」だ。

ツイッターで「副主席」@SEI__jou という人が、以下のようにセイゴオを評している。

日本にはやたらと自己演出の上手くてアヤしい文化人が権力者や金持ちに取り入り、色んなものに手を出してパッチワークさせながら紡いできた文化の伝統みたいなものがあり(西行、宗祇、禅竹、光悦、小林秀雄……)、松岡正剛ってその系譜に連なる人のような気がしている。

https://x.com/SEI__jou/status/1826586869561524534

これは至極当たり前でもある。というのも、松岡の最初期の代表作は空海論なのだから。空海は英明な嵯峨天皇の寵愛を得て、密教を国家宗教にすべく動いた。と同時に、旧来の南都仏教勢力とは一線を画しつつ、高野山に根拠を築いた。王と仏の両方に仕えつつ、そのバランスを取る。そうした空海の英知から松岡は多くを学んだに違いないと思う。いかに知を力(権力)と接合させ、共存ひいては共栄させるか。それが彼の最初からの問題意識だった。ことによると、それこそ彼の「方法」のひとつだったのかもしれない。

それ自体を批判するような人は日本文化の伝統について何ひとつ知らない人だし、かすみでも食って生きていればよい。てか、実際には松岡と同様、国家からカネをもらっているのに気づかない、月々のお給料をもらっているのに、その自覚すらない迂闊な人というにすぎない。

すでに「遊」の時代に彼は、人工衛星からすべての個々人の動向が監視されるような社会の到来を予見している。今後の世界は知識ではなく情報だと、いちばん早く言明したのが松岡正剛だった。インターネットの時代がやってくるのは、もっとずっと後のことである。当時の日本の知識層は彼が言わんとすることを全く理解できなかった。

知識は本と結びついている。情報の時代に書物が解体されるのは当然だ。本という形態は終わったと、かなり早い時期から自分は信じていた。書物の終焉とは歴史の終焉でもある。そんな観点からバタイユやブランショを読んできた。

ところが松岡は同時に本の人でもある。情報の時代の到来を説きつつ、書物という形態に執着していた。それは矛盾でもあるが、その矛盾を途方もない振り幅で体現してみせたところに、この知識人の面目躍如たる面があったと思う。

思うに、本に書かれてあるようなことは、たいてい大したことではない。むしろ本に書かれていないことを読む。それが本当に読むことだ。そのためには逆説的ながら本を読まねばならない。

あるいは世間的には古典と見なされ、盲目的に崇敬されてはいるものの、実際には全く読まれていないような本など幾らでもある。そんな本や著者を発掘するのは面白いし、きりのない営みとなる。たとえば今、ヴィーコ『新しい学』をやたら時間をかけて読んでいるが、これもまた読まれざる書物である。

3) 昭和は遠くになりにけり

さて、80年代初頭の私は何をしていたかと言うと、呆然自失していた。親も教師も友人も社会も何ひとつ気に入らない。誰も彼もがバカに思えた。で、事実そうだったと今にして思う。

高校が嫌いで、勉強を拒否した。大学なんぞに行きたくなかった。追い詰められ、半ば発狂していた。唯一自分を支えていたのはボブ・ディランやストーンズを聴くこと、日本では吉田拓郎を聴くことだけだった。思えば人生の師を、あるいは《父》を求めていたのだと思う。

人間には何かバックボーンになるものが必要である。敗戦後の日本はそれを完全に失った。その衝撃が70年代ぐらいまではまだ反響をくり広げていたように思う。学園紛争の根底には明らかにそれがあった。

敗戦のショック――とりわけ日本の場合は世界戦争に敗れ、最終兵器である原爆を2発落とされたのだから、そのショックから立ち直るのは容易なことではない。経済的・物質的には立ち直れたように見えても、こころは死んでいる。いまだに「負けてない、負けてない」と言い募る人たちがいるのは、私たちの民族が知的・精神的に崩壊したからである。

戦前&戦中の日本人は天皇を信じ、日本政府と軍隊を信じ、学校の先生を信じた。それがすっかり覆ってしまった。代わりになる価値観としてアメリカ的民主主義が輸入されたが、むろん口だけのことにすぎなかった。

敗戦後、坂口安吾は「堕ちよ。堕落せよ」と説いたが、同時に彼は、人間は堕ち切ることはできず、そこに本当の自己の発見があるとも書いた。堕ち切ったところに見出される自己。しかるに日本は、そして日本人は正しく堕ち切ったと言えるのか。

多くの人は親や回りに言われるがままに勉強し、学校を出て、仕事に就き、家族を作り、その循環のなかで死んでゆく。そんな生活に疑問を持たない。「常民」とはそうした存在だ。が、すべての人がそんな安楽な生活に自足できるとは限らない。そこからはみ出す者、転落する者、あるいは後足で砂を蹴って出て行く者たちがいる。かれらは誰もいない荒野にさまよい出る。

欧米の場合、多様な中間組織がいまだに有って、たとえば帰るところを失った若者を宗教団体が支える、というような逃げ道がある。日本の場合、既成教団が当てにならないので、代わりに創価学会のような新興宗教団体がその役目を務めてきたという否定しがたい事実がある。

もっとも中流階級の子息や子女の場合、宗教にすがることはあまりないかもしれない。ふつうにグレたり、暴走族に入ったりする。かつてのバンドブームはそうした若者を多く吸収し包摂した。

近年の日本文化はすっかり力を失い、かつてのように若者を包容する力がない。若者たちのコミュニケーション能力もすっかり低下し、友だちを作る能力もない。行き場を失った若者はひきこもり、もっぱらネットを見て時間を潰す、という顚末に相成った。

あまりにも長くなるので省略するが、とにかく大学ぐらい入らないと始まらないと覚悟して、にわかに受験勉強して何とか合格できた。文学部は楽だった。友人や恋人もいたし、学校の授業もけっこう楽しかった。人間のバックボーンとなりうるのは学問しかないと確信するに至った。

80年代初頭に頭角を現わした知識人の講演会にも足しげく通った。どんな人なのか見てみたいという野次馬的好奇心からである。その殆どの人の話を聞き、酒席にも出た。いま思えば、なかなか得がたい体験で、後々の知的財産になっている。ひとの話を聴くのは大事で、もっとずっと後になるけど、荒川修作から話を聴いた経験は自分を変えた。あんなに話が面白い人は後にも先にも知らない。

とはいえ、不思議と松岡の話は聴きに行ったことがない。そのころ学外の友人と勉強会をしていて、そのひとりが六本木WAVEに務めていて、たしか民族音楽のコーナーを仕切っていたはずだ。その彼が松岡に私淑していて、ちょっとしたエピゴーネンのような感じだった。

いま思い出すと田舎出の真面目な青年で、決して悪い人ではなかったが、当時の私はいたく思い上がっていたので(今でもそうだが)、自分の知らない本についてあれこれと解ったように話すのがいささか不愉快だった。オレさえ解らないのに、お前が解るはずないだろう!と思ってしまった。いや、実際そうだったに違いないと思うんだけど。

ようは知識でマウントを取る、ということが至るところで行なわれていて、それが不快だった。自分にもそんな傾向があったのは否定しがたく、それ故いよいよ松岡のグループを嫌悪するようになった。いま思うと彼の話を聴きに行かなかったのはそのせいじゃないかな。

その頃の彼の書きぶりには私どもの知的劣等感をいたく刺激するところがあった。かれを師表と仰ぎ、同一化する若者には縋るべき指導者とも思え、そうでない人間には「なんだ、いい加減なことを言いやがって」と反発を招くところがあったように思う。いまだに、そう。

松岡は歳を取ってからテレビによく出てきた。ところが、その話が正直あまり面白くない。なぜ彼は若者を組織し得たのか?と不思議に思う。比べたら気の毒だけど、イエスの箱舟のようなカルト宗教的な雰囲気がある。

多分かつてそうだったように、日本の大学の教育組織に飽き足らなかった人たち、そこからはみ出したり、落ちこぼれたりした人たちが松岡の門を叩いたのではないか?日本の大学知とは別のかたちの知を求める人が松岡の許に集まったのではないか、という気がする。

どいつもこいつも頭がいい人になりたがっている。いや、そう他人に見られたいと思っている。じつに下らない。にもかかわらず、そんな連中と張り合うには、あるいはそんな連中の正体を見破るにはバカではだめだ。賢くならなくてはいけない。さもなければ、かんたんに騙されてしまう。

高校時代に学校の行き帰りの電車のなかで TIME を読んでいた。というか、眺めていた。わけが解らなくても、目を英文にさらしていれば英語が読めるようになるのではないか?という、ひどくさもしい心根からである。そう説く英語学者がいて、その著書に影響されたのである。無論そんなことで読めるようになるわけない。とはいえ、後から考えると全く無益だったとも思えない。横文字に抵抗感がなくなった。

それならさぞかし学校の勉強は出来ただろうと思われたら困る。というのも私はそもそも「学校」が大嫌いだった。学校の勉強を全くしなかった。むしろ拒否していた。無手勝流に英語を読み、ボブ・ディランに熱狂していたにすぎない。

学校の英語を勉強しないかぎり、学校の成績はよくならない。学校の勉強には《型》があるので、それに嵌らないかぎり決して出来るようにはならない。受験はその最たるもので、型に嵌る必要がある。予備校に入り、半年やったら英語の成績は爆上がりして、偏差値は70に届いた。夏には早慶に入れそうなレベルに達したので、またしても趣味の勉強に走って成績は停滞した。

高校時代の私は一種の失読症に陥っていた。小中時代はむやみに本を読んだのに、すっかり読めなくなった。とりわけ教科書がダメだった。教科書は「教科書文体」で書かれている。それに馴染めなかった。

たとえば大人になってから山川の世界史を手に取って読んでみるといい。堅苦しくて、とても読めたものじゃない。知識を収斂し、要約する体裁になっている。社会の教師は「丸ごと覚えろ」と言ったが、実際のところ丸暗記を想定した仕様なのである。進学校だと本当に丸ごと覚える奴らがいて、唖然とさせられたものだ。

とまれ、教科書文体には日本的知識人の文体の「型」がある。その型を自分のものにしないと、中学まではさておき高校の教科書は読めない。そのころ私は東西の古典やSF小説をよく読んでいたが、教科書だけは読めなかった。自分でも訳が解らない。

その後は必要に応じて徐々に教科書文体を読み解き、自分でも駆使できるようになった。それは自覚的に、自分の知性や感性とは別の有り様を摂取できるようになったからである。自分とは異なる認知の有り様を受け容れるようになった。ようは柔軟性を身につけて行った。そうせざるを得なかったのである。

そのきっかけとして、大学初年度の夏にヘーゲル『精神現象学』を読んだのが大きいかもしれない。名にし負う悪訳だ。あまりに訳が解らないので、一行一行ノートに書き写していった。そのうち、すらすら読めるようになった。ひと夏すぎるとヘーゲル以外の難読書や、新聞の生硬な論説文など、先に述べた「教科書文体」の堅苦しい文章が難なく読めるようになった。どうやら私に抵抗を覚えさせていた日本語の学者文体とは翻訳文であるようだと察しがついた。

翻訳の日本語が特異な文体になるのは避けがたい。そうではなく、翻訳文体が自国語のモデルになってしまうのが致命的なのである。頭の中に英語や独仏語のような欧文がインストールされている人たちの書く日本語は「翻訳文」と化している。ふつうの日本語ではない。歴然とした違いがあるのだが、いまの日本の知識階級は幼少期から英語で訓練されているので、むしろ第一言語が英語になっている。「ふつうの日本語」なるものが理解できない。

本来の日本語の呼吸を保持しているのが日本の古典であり、あるいは現代の日本語作家の書く文学である。それらを今の知識階級は読めないし、何が面白いのかさっぱり解らない。よって、文学一般を大学から排除しようと企てている。日本語絶滅計画が速やかに進行している、というわけだ。

私の高校時代には TIME や Newsweek が駅の本屋で売っていた。ある日その表紙に AIDS の文字がデカデカと踊り、あちらでは死病が流行っていると知った。それぐらいは私の英語力でも理解できた。さぞかし日本でも大騒ぎになるだろうと思っていたら、いっこうにそうはならなかった。驚くべきことに日本では海外からの情報が徹底的に管理されていたのだ。

後から解ったが、厚生省のみならず政府とマスコミが組んで、エイズの件を隠蔽していた。数年後、神戸の同性愛者がエイズを発病したというニュースが大々的に取り上げられた。意図的なリークだった。この国では何もかも仕組まれている。外国語ができないと騙される。自ら情報を得る努力をしないと殺られる。正しい知識を得ることは私の人生の最重要課題となった。

その意味で17歳の頃から私は一貫して「陰謀論者」である。あらゆる情報は管理されている。権力に都合の悪い話は表沙汰にならない。朝日新聞をはじめ、あらゆるマスコミは信用ならない。ほとんど半世紀ものあいだ私はそう言い続けてきたわけだが、世間の人たちはようやく最近になって気づいたようである。

「知は力なり」というのは、いいかえれば「知は暴力だ」という意味でもある。力なき知、弱々しいものに宿る知というものを肯定せんとしたところに松岡正剛の真面目はあった。しかるに、本人の思惑とは異なり、力への意志としての知の本質を否定し去ることは難しい。というか、不可能である。正しい知識を持つための努力を怠ると、私たち平民は権力により抹殺される。

70年代半ばから日本の閉塞的な状況が進行していたが、バブル景気もあって80年代はカネが余っていた。その頃は出版の景気もよく、雑誌や書籍が大量に出回っていた。民間にも活力があり、上で述べたように大学や組織を横断するような勉強会や研究会が各所で運動をくり広げていた。今とは状況が大きく異なっている。

カネ回りが悪くなるにつれ、民間の知的活動は停滞して行った。それに伴い、ひと頃はタコツボとしてバカにされていた大学的知の支配が復活した。望月三起也の予感は正しかった。あらためて組織の時代がやってきたのである。私は自分が草波になったような気がした。無数の飛葉たちは激流に呑まれて姿を消して行った。

丸山真男は日本における知的営みがいつの時代も流行でしかなく、世代が替わると前の代の蓄積が容易に忘れ去られ、ゼロに戻って一からやり直しになる事態を憂えた。いわば知の式年遷宮である。

タコツボの専門家たちを丸山は批判した。重箱の隅をつつくばかりで、大所高所からの客観的な判断ができない。日本の軍国主義を支えたのはそうした知識層だったし、戦後もまたそうだった。丸山の重厚な著作を読まない者であっても、その主張に触れたことはあったし、ある時期まで広い層から一定の理解と支持を得ていた。

ところが、あにはからんや学園紛争時に彼の研究室は学生に襲われ、焚書の憂き目に遭う。丸山は知識人のみならず大衆の側にも視線を届かせ、まさに大局的な観点から論陣を張っていたのに、その民衆出身の学生に襲われた。学生たちはこの偉大な知識人の真意など知るすべもなかった。

丸山は決して専門家のみを非難したわけではない。専門主義は現代の学問の趨勢だ。それに易々と従い、タコツボに閉じこもる者を批判すると同時に、ひとかどの専門家ですらない軽薄な文化人やジャーナリストをも彼は攻撃した。その主張は妥当だったし、今なお意義を持つ。

ところが丸山を体よく葬ることで、以後の日本では手放しの専門主義が横行するようになったようだ。誰もが専門家を僭称しようとした。そんな状況にたいして真っ向から反抗をくり広げたのが松岡正剛だったと自分は理解している。そのかぎりで彼を今なお支持している。

今の状況はまことにおぞましいものだ。誰も彼も専門家のふりをしている。ミヤダイがテレクラや援助交際の「専門家」としてテレビに出てきたとき、私は呆気に取られた。以後も社会学者を名乗る連中の堕落ぶりは言語を絶する。いや人文&社会科学一般もほとんど同様だ。自分が大学教授だ、すなわち職業人だという1点をアイデンティティにしている。学問もなければ、専門的な知見もない。自らが大衆の一員にすぎないという自覚がない。まさにオルテガのいう「大衆の反逆」である。かれはそんな専門家を自称する者こそが大衆の最たるものだと喝破した。

いや自分こそは専門家だ。なぜなら18世紀の誰も読んだことがないような無名作家について自分より詳しい者は世界のどこにもいない!と胸を張るような御仁が、ことによると居るかもしれない。ちなみに私も、その時代のポルノ作家に若干の関心を持っている。だが、そんな関心の持ち方や、それを以て自らを専門家と名乗るような卑俗で矮小な精神を丸山はタコツボの知識人と呼んで批判したのである。

社会や国家の行く末に関心を持たず、自らの趣味的な研究に没頭する。そんな自称・知識人ばかりだったから、軍国日本はアメリカのデモクラシーに完膚なきまでに敗北したのである。そうした反省がきれいさっぱり雲散霧消している。タコツボの住人でしかない己を恥じるばかりか、むしろそれを誇り、ツボのなかでふんぞり返り、威張り散らしている。セクハラやパワハラはお手の物、駅で盗撮して捕まったり……

学問は公共のためにあると丸山は言いたかった。経世済民という理念なき学問など無だ、オタクの趣味だと今なら彼は言っただろう。これは大学に限ったことではない。いまや日本の至るところがツボだらけだ。各人が各人のツボに閉じこもるあまり、終いに生殖すら不可能になって出生率は下がるばかりである。

学問はすべからく万学たるべし。アリストテレスは今なお学問を志す人の理想でなければならない。そんな万学の理念が急速に失われつつあった時代に、ひとり孤塁を守ったのが遊学の松岡だったというのは何とも皮肉極まりない事態である。

4) 我は日本ならずや

以下のようなツイートを見かけた。

とうしゆ 読書熱@yanabuchiyanabu
共通の価値観や物語がなくなり
過疎化に伴い故郷を離れる人が増え
アイデンティティや対人関係の拠り所が「日本人である」というところにしか残らくなってきてる感覚凄くあるのでとても怖いですね

https://x.com/yanabuchiyanabu/status/1826484051710292190

>アイデンティティや対人関係の拠り所が「日本人である」というところにしか残らなくなってきてる……

そうなることに逸早く気づいたのが三島由紀夫だったのだ、と今にして思う。欧米列強から日本文化を防衛しようとするとき、日本人のバックボーンとして残るのは天皇という仮構でしかない、天皇制という擬制でしかないと彼は見た。

三島の叫びを独自の日本学として自ら引き受けようとしたのが松岡正剛だったのではないか。どこかで彼は三島のことを「父」と呼んでいる。とはいえ松岡は天皇主義者では全くない。彼にとって日本は実体ではなく、方法による構成体である。で、問題はその「方法」なるものの実態である。松岡正剛にとって方法とは何ぞや?

やたら方法、方法と言うくせにセイゴオさんの「方法」というのが全く理解できなかった。それがいつの間にか「日本という方法」にすり替わっているし。この肝心の点を論じようとすれば、かれの書いたものに仔細に目を通さねばならなくなる。が、それほどの興味を今の私は持ち合わせていない。それは以下の理由による。

松岡のいう「編集」は、ふつうに考えれば「表現」である。独自の編集は立派な自己表現でもある。が、そうした言い換えを彼が認めることは絶対にないだろう。というのも彼は、一貫して自己や自我や自意識の欺瞞を批判し続けてきたからだ。《自己》に拘るのは愚かしいと、小林秀雄「無私の精神」のようなことを言ってきた。

なのに本人は明らかに自意識の塊だった。若い頃は常に作務衣を身にまとった異形だった。晩年もお洒落だったし、自意識アリアリだろう。あきらかに矛盾している。ちなみにオレなどは本当に自分に関心がないので、いつもユニクロだ。

自己という観念を否定し、自己表現を無みする以上、当然ながらオリジナリティなど歯牙にもかけられない。その代わりに称揚されるのが「編集」である。しかるに、あらゆる表現には先人の仕事や業績にたいする編集が存在するのは論を待たない。自己表現やオリジナリティはそこから出てくる。それらから独立した編集とは何ぞや?そんなものが実在するのか?

小林秀雄の無私の精神が結局は日本的な美意識に収斂されて行ったように、松岡流の編集の担い手もまた「日本」という曖昧模糊たる主体となる。どちらにしても感覚的かつ感性的なものである。

日本とは本当にそんなものなのか?そんなものでしかないのか?感覚的なものを超えた超絶的で超越的なものに手を届かせようとするのが真の表現者ではなかったのか。まさに三島由紀夫はそれを切望したのではなかったか。

稲垣足穂はそうした貧乏くさい日本的美学を毛嫌いして、安土桃山時代のギラギラして下品でもある美意識こそが日本的な美の絶頂だと述べたことがある。まさにその通りだと私は思ったので、よく覚えている。

それは陽光の下での太刀の一閃のごときものである。そこでは光と刀がひとつになる。三島はそれをバタイユに仮託して「死」と呼んだ。そして、そこにこそ真の生を見出すべきである、と。

松岡は自らの京都の出自をつねづね誇りにしていたようだが、真に日本的なものとは京都の神社仏閣などではなく、奈良の古墳や三輪山や、尾張名古屋の鯱(しゃちほこ)や、大坂堺の町衆だったりするのではないか。

ようはギラつく太陽的なものこそが日本の真の魅力であり、彼の説く《月》ないしルナティックスの美学は、その反射物にすぎない。むしろその《負》の側面をよく捉えたところに彼の日本学の独自性があったことは否定すべくもないのだが。

自我、自意識、自己表現、オリジナリティ、創造性……等々を否認することは、当然ながらヨーロッパ哲学の全面的な否定になる。「千夜千冊」が哲学者を取り上げると、必ずや不十分で中途半端なものになると先に述べた。同様に彼はフロイトをまともに読んでいない。精神分析学の悪口ばかり述べていた。

本と《私》は密接に結びついている。生涯にただ一冊の自分の本を仕上げるためだけに生きたように見える思想家や文学者は数多い。いま思いつくままに挙げてみても、ヴィーコ『新しい学』、スピノザ『エチカ』、ホイットマン『草の葉』等々。そのとき本への問いは己への問いに収斂せざるを得ない。そして思想家にとっての自己とは、つねに普遍的なものだとニーチェは述べた。安直に自己を否認する者は普遍的なものへの出口を見失うだろう。

こうして過去を次々に思い起こして行くと、私が松岡にたいする関心を失った時期は割とはっきりしている。それは自分がヨーロッパ哲学、とりわけベルクソン研究に深入りして行った時期である。

自己と他者、その関係性、そこに創発する創造性等々の問題系において、ヨーロッパ哲学が到達した水準は端倪すべからざるものであって、それを汲み尽くすことなく軽々しく自己意識を否定し去り、日本的な美学を説くような言説は端的に愚かしく感じられた。それは戦前の近代の超克派を空しく反復することになるであろう。

もはや編集と反復しかない、という観念は一種のイデオロギーである。世に新しいものはない、というのは錯覚にすぎない。インターネットと生成AIの時代に新しいものは陸続として生まれつつある。20世紀末と21世紀の現在とでは状況は大きく変わった。

日本にスティーブ・ジョブズが生まれなかったのは事実である。が、それは日本人が真に新しいものを見抜き、新しい価値を創発する者を支持し、擁護し、支援するような創造的な組織を生み出し得なかったからである。むしろ逆のことばかりやってきた。「哲学」を持たなかったからである。

かつて栗本慎一郎がどこかで、個性とはつまらぬ自己主張などではない。愚かしい自我を滅し尽くしたところに真の個性が発揮される、という趣旨のことを述べていた。よりによってクリモト、お前が言うか!と私は腹を抱えた。

こんなの役人の言い訳にすぎない。小林秀雄の「無私の精神」の焼き直しにすぎない。代々受け継いできた染め方に一色加えるようなもの。京都の染物屋さんのような、しみったれた創造性にすぎない。そんなものが個性だったら世にスティーブ・ジョブズは現われなかったし、お茶の間に身近なところでは北野武のような才能が頭角を現わすこともなかっただろう。

個性とはギラつくような自己主張と、貧困と怨念と憤怒と純情から沸き立ち、爆発する未聞の炎である。横車を押し通すことである。親鸞のいう「横超」である。むろんそこには才能と知性と計算がなければならない。上手く行くかどうかはやってみなければ判らない。そこには全身全霊を賭した賭けがある。

そんな乾坤一擲の賭けを回避し、師の教えを金科玉条とし、型に嵌った修行を説き、順当に出世するのを目ざすのは日本的小役人の精神にすぎない。役人のトップに昇りつめたとき、血閥や人脈や地盤で難なく出世した支配層に頭を抑えられ、踏み潰されて終わるだろう。

セイゴオ先生は新しいものを擁護したことは一度もなく、書かれたものを再認し、「編集」してきたにすぎない。書かれたものしか見ない。それは端的に言語至上主義であり、反動的な身振りである。

もっとも日本の先生方が新しいものの創造を称揚されたことなど、ただの一度もないのではないか。かれらはつねに反復と編集を説いてきたのだ。セイゴオ先生がなぜ日本の大学を嫌ったのかよく解らない。まったく同じことを違った形でやってきたに過ぎなかったのではなかったか。

もうひとつ言えば、セイゴオ先生は「幸福」という観念を認めようとはしなかった。なぜならそれは各人各様のものでしかなく、言語で表現しがたいからだ。同時に「自由」も内容空疎で無意味な言葉になる。これを突き詰めれば、アリストテレスを始祖とするヨーロッパの倫理学など一切不要ということになる。

実際のところヨーロッパ思想は、つねに言語を絶する超越的かつ宗教的な体験の回りを巡ってきたと言える。かれらは時にそれを《神》と呼んでいる。西洋と日本ないし東洋を峻別し、前者の思想的達成を否認するなら、超越論的な思索の一切が捨象されてしまう。言語化し得ないものを等し並みに無や空虚と見なすのは、畢竟、言語至上主義にすぎない。そもそも日本思想においても常に問われてきたのは言語の彼方だった。それを無とか無常と呼んだのである。

聖徳太子が言うように「世間虚仮」として、真なるものは仏だけである。私たちは世間を去って仏の真実に就かねばならない。仏とともに従順に慫慂として死を迎えねばならない。即身成仏を実践して空海は死んで行った。

いかに死すべきか。現代人としては上岡龍太郎の人生の終わらせ方に感銘を受ける。割と早い時期に芸能界を完全引退し、以後は表舞台に一切顔を出さず、ゴルフ三昧の生活を送って亡くなった。現世に拘泥することがなかった。上岡流の引退にこそ生存と死の美学がある。

松岡正剛は来たるべき自らの死を面前にして何を思ったのだろうか。読んだかぎりでは、死の直前まで仕事を続けたらしい。働きバチのサラリーマンのようだ。これは私の理想とする死に方ではない。現代人が病院で死ぬのは当たり前だし、やむを得ないとしても、あまりに凡庸ではなかろうか。

死を前にしたとき、私たちは自らの個我に向き合わざるを得ない。日本は私の代わりに死んでくれない。

今東光の親父さんは船の船長をしていて、「神智学協会」の熱烈な会員だった。稲垣足穂は学生時代に今東光に殴られた恨みを忘れず嫌っていたが、「あの親父さんだけは偉い」と褒めていた。草食主義者で、喉頭ガンでも医者には行かず、延命治療を拒否して短い生涯を終えた。こんな死に方こそ理想だと常々私は思っている。

信仰の有無は別として、死生の覚悟は個々のものである。それは決して情報化し得ぬもの、1度かぎり1人かぎりのものである。死を自らにどう受け止めるか。そんな真摯な思索に根差さすことなき知識など無に等しい。

今東光にせよ、稲垣足穂にせよ、あるいは小林秀雄や三島由紀夫にしても、昭和の文人の知的な幅の広さは今なお魅力的である。かれらの面影を思い浮かべるにつけ、日本人の知性は痩せ衰え、民族としての活力をすっかり失ってしまったと慨嘆せざるを得ない。それは日本人が仏教や東洋の古典、ひいては一般に宗教的なるものと切り離されてしまったことに因るだろう。

言語を絶する体験から言葉は届く。そんな言葉の源への畏れを失ってしまった。もはや言葉は「編集」されるだけのものになった。自らの内なる淵源から汲み出すものではなくなった。編集から新しいものが湧きだすことはない。新しいものの創造なきところに実存もない。

そんな時代に松岡正剛の訃報が届いた。良くも悪くも生前に学恩を受けたのは事実である。この一文を以て、せめてもの追悼の辞としたい。

5)補足

先日の研究会で、なぜ日本では中間組織が壊滅状態にあるのかという点が俎上に上った。

いまの社会では国家や会社と個々人が剥き出しのかたちでぶつかり合っていて、その中間において両者を相対化し担保するような組織体が欠落している。むしろ個々人は己ひとりの安心を得ようとして藻掻いている。不安のなかで直接的に国家や会社と一体化せん虚しくと足掻いているように見える。お互いに顔の見える中間組織ではなく、テレビやマスコミ、ネットといったものが一体化と不和を煽る装置と化している。

中間にあるものとは本来が中途半端なものである。十分に公的でもなく、十全に私的でもない。その中途にあって極端に走ることのないもの、むしろ中道における常識を求めるものだ。

どちらかに一方に行き着くことがない。よってそれは常に動いている。動きのなかに生命と美を見出す。アリストテレスの倫理学が捉えようとしていたのは、そうした生き方であり、美学でもあったのではないか。命あるものは動く。

松岡正剛が「編集」と呼んだのも、じつのところそうした中間性の美学だったのではなかろうか。それをどこかで彼は「中間子」と呼んでいたように記憶する。遊学塾という形で、かれは大学的学問に収まらない知識と情報の有り様を不断に組織化していた。それは松岡流の中間組織形成の試みだったのではないか。

専門を事とする大学人には、かれの書物はいかがわしく、かつどれも中途半端に見えた。どれを取っても「専門的」とは言えない。しかるに知識の全容を視野に入れた知が小さな専門に収まることはあり得ない。この点がまったく理解されぬままである。

専門家であることは、いわば一角獣のごときものだ。ファロス主義者だと言い換えてもいい。お互いに角を突き合わせるばかりで、肝心の獲物を逃がしてしまう。フロイトやデリダとは別の意味で「去勢」が必要なのだ。にもかかわらず、実際には己の角を磨くことばかりに専念している。そんな珍獣だらけでは、とても世界という《森》のなかでは生き抜けない。

日本の中間組織が壊滅状態にある現状に、知らぬうちに大学人は手を貸しているのではないか。むしろそれを基礎づけ、加速化しているのではないか。

先日の研究会では「デモクラシーと市場システムの是非は学知(エピステーメー)だけでは探究できない」という点がくり返し話題に上った。なぜか。

それはデモクラシーというものが煎じ詰めれば世界民衆を視野に入れるべきものであり、また市場システムなるものが地球上のファンダメンタルズの集約により成り立つものだからである。どちらも無限へと開かれていて、それは学知のみで把握できるような代物ではあり得ない。

無限なものをいかに把捉すべきか。そこにこそ「方法」が要請されるのは言うまでもない。そして、それには狭い学知を超えた創発的な想像力が必要とされる。これもまた言うまでもないことである。

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