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「わっしょいわっしょい」


夏だ
祭りだ
わっしょいわっしょい
神が来た

雷鳴轟き
大地を揺るがし
わっしょいわっしょい
山が来た

雲外蒼天
空を突き抜け
わっしょいわっしょい
龍が来た





 祇園祭と言えば、京都の祇園祭や博多祇園山笠が有名だが、我が街の黒崎祇園山笠くろさきぎおんやまがさも400年以上の歴史があり、福岡県の無形民俗文化財に指定されている。幕末から明治初期は何時となく消えていたが、明治中期に流行した悪疫の厄払いのために復活したとのこと。

 人形飾山8基の壮観な巡行と共に、大太鼓と小太鼓、鉦、ほら貝を使った囃子の勇壮な響きや、「わっしょいわっしょい」という威勢のいい掛け声が加わり、祭りのムードを華やかに盛り上げている。特に巡行の途中、4つある車輪の一つを軸にして、山笠をくるくると回す「けんか山笠」が始まるとボルテージは一気に急上昇。けんかと言っても実際にぶつかり合うことはないが、対峙した山車同士の激しい回し練りが実に壮観で美しい。

 黒崎祇園山笠に関する記事を投稿するのは今年で3回目。今回はどこで写真を撮ろうかと考えた時、ふと会場となる駅前通りの一番はずれが思い浮かんだ。数百メートルほどの通りを通行止めにして、8基の山笠が1時間にわたり行ったり来たりを繰り返す。通りの両端でUターンをするので、こちらに向かってくる山車の正面と、去って行く背後の姿を眺めることができる。通りの中央附近は「けんか山笠」がすぐ間近で見られるとあってたいへんな人混みだが、この端の位置だけは最も人が少なく平穏な場所だ。

 この終点の路上に設けられた鉄パイプ製バリゲートの背後に胡坐をかいて陣取り、カメラを構える。次々と山笠が目の前に迫って来てUターンして遠ざかっていく。しかし山笠が混み合うと、このUターン地点が渋滞する。その数分間に数十人の担ぎ手たちが、立ったまま一時の休憩をとる。その結果、彼らの輪の中に自分がちょこんと胡坐をかいて座っているという、何とも奇妙な状況に置かれてしまうことになる。

 ところがここで思いがけないことが起こった。急に祭りの音が大きく、澄み切った瑞々しい音色となって聴こえてきた。まるでラジカセで聴いていた同じ音楽を、生の演奏で聴いているような感じだ。更に視覚も変化する。それまで見ていた光景が急に明るく輝き始め、きらきらと美しく見え始める。どうやら変性意識状態に入ってしまったようだ。自分を取り巻く環境が種々雑多な音の洪水に包まれている中で、自分の頭の中がシーンと静まり返り、深い瞑想状態に入っていた。

 つまり山笠の引手たちの多くが変性意識の「ゾーン」に入っていたために、自分の意識も巻き込まれて自動的にすっぽり入ってしまったのだ。「ゾーン」に入っている時、人の意識は覚醒し、感覚機能は増幅する。潜在的パワーが生き生きと活性化される。心身はリラックスし、思考が消え、集中力が高まり、精神的肉体的に普段の能力以上のものが発揮され、疲労感とは無縁のエクスタシーへと入っていく。

 この祭りに参加している人たちがゾーンに入っているのは、写真に写る彼らの表情の中にも見て取れる。相当なハードワークにもかかわらず、誰もがリラックスして祭りを楽しんでいるように見える。
 巡行が始まる直前に、ある山笠のリーダー格と思しき中年男性にいろいろと話を伺った。山笠の動きをどのようにコントロールしているかについて尋ねると、リーダーの合図に合わせ全員が掛け声をそろえて応えるそうだ。どの位置にいるかによって山車に加える力が全員異なるという離れ業のようなことをしているのだ。

 「相当きついと思いますけど、同時に皆さんすごく楽しそうにやっていますよね」
と聞くと、
 「そこが祭りに参加する一番の醍醐味ですから」
と軽快に笑っていた。

   何しろ彼らはこの会場での1時間にわたるパフォーマンス終了後、地元の町内へ帰っていく途中の交差点内でも、更に一段とパワーアップした激しい回し練りが始まるのだ。ほとんど誰も見ていないにもかかわらず、それを彼らは自分たちの楽しみとしてやっているのだから、よほどのエクスタシーなのだろう。

 この黒崎祇園山笠の美しさは、勝ち負けや損得勘定といった資本主義の論理とは無縁な状況の中で、参加する人と見物する人の双方が意識の高みを純粋に共有できるという点にあると思う。


🎐🎐🎐



 ところで祇園祭の起源に関しては余りにも多くの説と謎があり、ここで取り上げるには膨大な情報量があり過ぎて不可能だ。しかし「祇園」の語源が古代ヘブライ語の「シオン」、また「わっしょい」は「神が来た」という意味の古代ヘブライ語が語源であるという説などから浮かび上がる「日ユ同祖論」は、日本の文化伝統のルーツが渡来系民族によって形成されたという説を裏付けるものとして、とても興味深い。

 さらに神輿や山車のルーツをさかのぼっていくと、旧約聖書の契約の箱(十戒が刻まれた石板を収めた箱)にまで行き着く。これは聖櫃せいひつ約櫃やくひつ、ソロモンの秘宝アークなどとも呼ばれる。


出エジプト記 - 25章8-16 

主はモーセに言われた、
(中略)

25:8また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
25:9すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。
25:10彼らはアカシヤ材で箱を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
25:11あなたは純金でこれをおおわなければならない。すなわち内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。
25:12また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち二つの環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。
25:13またアカシヤ材のさおを造り、金でこれをおおわなければならない。
25:14そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつがなければならない。
25:15さおは箱の環に差して置き、それを抜き放してはならない。
25:16そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納めなければならない。

日本語の聖書


フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱
Wikipedia


 
 旧約聖書に書かれた契約の箱はその後行方不明となり、「失われたアーク」という映画もあるくらい注目を集めているテーマだが、「イスラエルの失われた10支族」の一部と共に日本に辿り着いたという説や、日本にある「三種の神器」は契約の箱に入れられていたものとする説はとてもロマンを掻き立てられるストーリーだ。また大平洋戦争末期、昭和天皇はこの三種の神器を使って「伯家神道」の祈りの儀式を執り行い、広島長崎の次に予定されていた東京への原爆投下を直前で食い止めたという説もある。

 その真偽はともかくとして、日本各地で行われている祇園祭は、長い時間をかけて姿形を変え、現在に至っているのは紛れもない事実。神輿や山車が祭りの主役であり、そこに何らかの神の力が宿り、神聖さを見出そうとする姿勢は古代から何も失われていないことが、こうした祭りの中に見出すことができる。

 黒崎祇園山笠では、多くの若者や子供が中高年の先輩達と力を合わせ、一心不乱に山車を廻し、そして変性意識のゾーンに入るほど情熱的に取り組む姿を間近で目撃することができる。祭りに参加する当事者のみならず、見物客にとってもそれは形骸化された単なる見世物ではない。この現代社会のビルの谷間においても、神国日本の「お祓い」という浄化と再生のための伝統的な神事が真剣に続けられているのはまさに奇蹟的だ。

 「わっしょいわっしょい」

 この陽気な掛け声が街中に響き続けるかぎり、日本から希望の燈火が消えることはない。

 一人の想念の波動は4秒間で地球を一周するという。
 「お祓い」の波動が日本中に、そして世界中に拡散し、祓い清められることを切に願う。






街中巡行







黒崎祇園山笠2024





















































































































【純正律】【432Hz】【68秒】【イマココ】
高音質の自然音と癒しの音楽♪瞑想や気持ちの切り替え用に♪
healing music garden


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燿
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