細川コレクション特別展 土方歳三資料館✖️肥後熊本藩に行ってきました🌸
こんにちは。先日、熊本県立美術館にて開催中の細川コレクション特別展「土方歳三資料館×肥後熊本藩」に行ってきました。開催開始日から2週目の週末の開館30分後に入館したのですが、すでに老若男女たくさんの人出でビックリ。土方さんと新選組の人気ぶりを改めて感じました。今回はその中で個人的に印象に残った展示品やエピソードをご紹介したいと思います。(4300字)
まず私の心を奪ったのは、入り口付近にいくつもはためいている幟に描かれた特別仕様のくまモン😆💓↓
こんな緊張感のない新選組隊士いないし🤣くまモンと新選組の隊服なんて一番かけ離れている気がして、驚きと可愛さで一本取られました❣️
それもよく見ると2バージョンあるんですよ!上の画像のくまモンの額には鉢金(はちがね)が巻かれているのに対して、下のくまモンは頭に鎖帷子(くさりかたびら)を装着してます↓
くまモンが鉢金と鎖帷子をそれぞれ着用しているのは、おそらく展示会場に土方さんが使用した実物が展示されているからだと思います💡それにしても手が込んでますね〜。さすがくまモン、何にでも変身できて、可愛くて笑えて最強です😆因みに1/10初日の開会式には実際に新選組の羽織を着たくまモンが会場に駆けつけたようです。特注の「誠」羽織を着たくまモン見てみたかったな〜💕
さて今回の特別展はタイトルでも分かる通り、東京の土方歳三資料館と永青文庫(細川家文書)のコラボ展になります。展示内容と土方歳三さんについては下記パンフレットの説明書をご参照ください↓
展示は以下の4部構成になっていました。
第一章 多摩時代の土方歳三
第二章 京都時代の土方歳三
第三章 函館時代の土方歳三
第四章 肥後熊本藩と新選組
以下それぞれの章から一品ずつ、私が個人的に印象に残った展示品をピックアップしてご紹介したいと思います❣️(No.は出品リストのNo.です。)
No.11 豊玉発句集
(第一章 多摩時代の土方歳三より)
俳句を嗜む祖父や長兄の影響から、歳三さん自身も豊玉という俳号で俳諧に親しんだそうです。こちらは文久3(1863)年2月に浪士組に志願することが決まった歳三さん(当時29歳)が、それまでに詠んだものから41句を選び、編纂した句集です。その中からひとつの句をピックアップ↓
しれハ迷い しなけれハ迷はぬ 恋の道
この句は41句中唯一恋について詠まれた句ですが、丸で囲まれていて修正しようとした跡があり、修正後の句は、
しれは迷い しらねは迷う 法の道
という法についての内容に変わっています。京への出発を前にした歳三さんの逡巡の跡がみられて、歳三さんの青年らしい一面を感じました✨
No.19 鉢金(はちがね)
(第二章 京都時代の土方歳三より)
展示されていた鉢金は額を守るために鉢巻などに付ける鉄製の板で、土方さんが文久3年(1863)の8月18日の政変や三条縄手の戦いの際に使用したものとされます。表面には数箇所の刀傷が残り、白兵戦の緊迫感を感じました。裏面には「盡忠報國志 土方義豊」との刻字があります。(※義豊は歳三さんの諱)鉢金は額の形に合わせてカーブしているのですが、そのカーブ具合から、土方さん小顔だったんだろうな、と感じました。因みにNo.21の楔帷子(くさりかたびら)の額を守る鉄製のヘルメット状?の鉢の部分も、女性の私でも入るかな?と思うほどのサイズ感でした。土方さん、小顔のイケメンだったんでしょうね〜✨
No.25 大書「入室伹清風」
(第三章 函館時代の土方歳三より)
こちらは縦35.7cm、横101cmの額に入った書です。土方歳三が亡くなった後、その甥である土方隼人作助が歳三の最期の様子を知りたいと榎本武揚を訪ねた際に、榎本武揚が函館時代の土方歳三の人となりを偲んで揮毫した書だそうです。
榎本さんは土方さんのことを「部屋に入ると清らかな風が流れるような、そんな爽やかな人物であった。」と評したそうで、それを表した書になります。土方家では代々この書を大切にし、歳三さんの仏壇の上に掲げていらっしゃったそうです。
とても素敵な表現ですよね。達観の域に至った人の自然さを感じさせるような人物表現だと感じました🍃私はおそらく、京都で新選組副長をしていた時代の厳しい土方さんだったら、こんな評され方はしなかったんじゃないかと思ったんですが、函館まで土方さんと一緒だった新選組隊士•中島登は土方さんについて「年齢を重ねるごとに温和になり、彼を慕う隊士達の様子は、まるで赤子が母を慕うかのようだ」といった趣旨の言葉を残しているそうです。
No.40 上田久兵衛日記
最後、「第四章 肥後熊本藩と新選組」から取り上げるのは、私が尊敬してやまない肥後藩士、上田久兵衛さんの日記です。まずは幕末の肥後熊本藩の立ち位置と、上田久兵衛(上田休)さんについて本展図録を参考にさせて頂き説明します💡
幕末の熊本藩は「公武合体」を藩の方針としていて、「一会桑」(一橋•会津•桑名の幕府側勢力)と協力関係にありました。特に会津藩と良好な関係であったことから、熊本藩の藩政文書には新選組についての記述が多数あるそうです。特に当時藩の京都留守居役であった上田久兵衛さんは直接新選組隊士達と会っていて、その事を日記に書き残しています。
上田久兵衛さんは藩校時習館で学んでいた頃から英才の誉高く、軍師役として藩主の弟に軍学を講じるなど有能な方だったのですが、久兵衛さんが京都留守居として京都に着任したのは禁門の変後の1864年8月。当時の京都留守居役は藩の外交官的な側面が強く、高い情報収集能力、分析能力が求められる重要ポストでした。久兵衛さんは公武合体という藩の方針のもと、朝廷•幕府間の融和のために精力的に政治活動を展開し、熊本藩の一家臣でありながら朝廷、幕府双方の要人から信頼され重用されたそうです。会津藩からの信頼も非常に篤かったそうですよ。そんな上田久兵衛さんの日記には新選組の情報だけでなく、幕末政局の最深部に関わる記述が豊富に記録されていて、幕末政治史研究の重要史料と位置付けられているそうです。
そんな上田久兵衛さんの日記には以下のような新選組に関する記載があるそうです。↓
慶応元年(1865)2月28日、新選組の論が過激すぎる事について同藩奉行副役と夜半を過ぎるまで論じたこと。
同年10月2日、(大阪城に滞在していた徳川将軍が外交問題を巡り朝廷と対立し、将軍職辞退と江戸帰還を決定し、大阪を出発する挙に出たおり、)会津藩の大阪での下宿から呼び出しを受け、久兵衛さんが駆けつけたところ、差し迫った状態の近藤勇と会津藩士•林又三郎らがいた。興奮する近藤らに対して、決して過激なことをせず、穏便に処置するよう説得したこと。
同年10月22日、新選組の武田観柳斎、伊藤甲子太郎、沖田総司が久兵衛さんを訪ねてきたこと。
私が上田久兵衛さんのことを知ったのは、2年前の熊本市川尻地区の散策時でした。久兵衛さんは1865年冬、京都留守居役を解かれ、帰国後川尻町奉行に任命されるのですが、そこでも手腕を発揮し、川尻町民から名奉行として慕われました。西南戦争が勃発すると、久兵衛さんは川尻町民の為に川尻鎮撫隊を結成し局外中立の立場で町民達を守りましたが、戦後、薩摩軍に味方したとの罪を着せられ、明治政府により処刑されてしまいました。川尻には今でも上田久兵衛さんを顕彰する案内板や川尻鎮撫隊の記念碑が建っています。
いつも感情に流されることなく冷静で穏健で、どちらかに偏ることなく中立の立場で事にあたった久兵衛さんなので、京都留守居時代には朝廷からも幕府からも会津からも信頼されていたという事実もさもありなん、と思いました。そして、今回の展示会で図らずも久兵衛さんの直筆日記を見ることができて&京都留守居時代の久兵衛さんの活躍が知れて嬉しかったです💓
川尻町奉行時代、そして西南戦争勃発時の上田久兵衛さんの活躍については、下記の川尻散策•西南戦争の史跡を巡る編に詳述しておりますので、未読の方は是非×3ご一読頂けましたら嬉しいです↓
以上、本特別展において私が感銘を受けた4点でした❣️本展では他にも土方歳三佩用の刀•和泉守兼定や「誠」とだんだら模様の入った新選組袖章、土方さんや近藤さんの肖像写真、熊本藩探索方の新選組について書かれた探索書など、興味深い展示品がたくさんありましたよ💡(展示品は途中入れ替えがあるようなので、詳しくは熊本県立美術館のサイトでご確認下さい。)本特別展は2024年3月24日まで熊本城二の丸にある熊本県立美術館で開催中です。お近くの方は熊本城散策も兼ねてお出かけになられては如何でしょうか?
最後までお読み頂き、ありがとうございました😊
【参考資料】
細川コレクション特別展「土方歳三資料館×肥後熊本藩」展覧会図録