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相良700年の隠れ里💛人吉球磨歴史さんぽ④ 【日本百名城 人吉城】

こんにちは。今回は熊本県人吉市麓町の人吉城散策レポート後編になります。人吉城は胸川と球磨川の合流地点に築かれた要害で、日本百名城にも選ばれています。今回は藩主の御館跡(現相良神社)→三の丸→二の丸→本丸を散策実況形式でレポートしていきたいと思います。散策したのは昨年の11月なのですが、なかなか記事にする事ができず、一周回ってちょうど季節感が合ってきたので、秋晴れの人吉城を一緒に散策している気分で記事を読んで頂けましたら嬉しいです❣️
(今回は5000字)

今回の散策地はここ!

人吉城の歴史

前回と被る部分もありますが、今回初めてご覧になる方もいらっしゃるかもしれないので、まずは人吉藩主•相良家と人吉城の歴史について下記に簡単に説明します。↓

今から800年前、初代•相良長頼が源頼朝の命を受け、建久9年(1198)に遠江国(現静岡県)から人吉庄に地頭職として下向したのが人吉相良家のはじまりです。下向当初、人吉城は平頼盛の代官•矢瀬氏の居城でしたが、矢瀬氏が明け渡しを拒んだ為、相良氏はこれを滅ぼし人吉城に入城しました。相良氏は戦国時代に入ると、球磨・八代・葦北三郡を有する戦国大名として成長します。しかし、天正9年(1581)薩摩の島津氏に敗れ、相良氏は島津氏の傘下に降り、所領は球磨郡のみに縮小します。そして天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州(島津)征伐が開始されると、第20代相良長毎(ながつね)は島津氏から寝返り秀吉に降伏し、球磨郡の本領安堵を受けました。長毎はこの頃から中世の人吉城を近世の城としてリフォームを開始し、豊後から石工を招き人吉城を石垣造りの城として改修を開始。長毎は秀吉の命に従い、朝鮮の役にも出陣しましたが、1600年の関ヶ原の戦いでは重臣•相良清兵衛の機転により豊臣方から一転し徳川方につき、家の存続に成功。江戸幕府下で人吉藩2万2千石の藩主となります。人吉城は慶長6年(1601)には本丸•二の丸•堀•櫓•御門まで完成し、慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣を築き始め外曲輪が造られました。寛永16年(1639)に石垣工事は中止されますが、この時人吉城がほとんど完成しました。その後も相良家は明治の廃藩置県まで球磨郡の領主として存続しました。

散策ルート紹介

今回の人吉城散策ルートを青字で示しています↓
(画像は人吉市の『日本百名城 人吉城』パンフレットから拝借)

人吉城の昔の様子が描かれた図に散策ルートを重ねてみたのがこちら↓

御館御門橋を渡り藩主の御館跡(現相良神社)→三の丸の於津賀神社→中御門跡を通って二の丸跡→本丸の護摩堂跡の順に散策実況していきたいと思います!それでは早速行ってみましょう🏃‍♀️

御館御門橋

御館御門橋は、藩主館の前面に造られた池に架かる橋で、藩主館への正門的な石橋です。

趣きのある古い石垣と石橋

池は一見堀の様に見えますが、南側の正面にしかない方形の池です。人吉散策②でご紹介した青井阿蘇神社の蓮池に構造が似ていることから風水の観点から造られた池だと想像します。(多分)

相良神社(御館跡)

藩主館跡は現在は相良神社の境内となっている。

さすが藩主の館跡、広い境内ですね。人吉散策③でご紹介した筆頭家老の清兵衛さん屋敷跡よりかは狭いらしいですが。因みに画面左側には『清兵衛門』という幅2m程の石段の門跡があります。(最初そっちから境内に入って、趣きのある石段だなぁと思ったのですが、写真は撮り忘れました💦)
門の名前の由来は分かりませんが、画面左側(藩主館の西側)には『馬責馬場』という道を挟んで清兵衛屋敷がある武家屋敷街だったので、恐らく藩主の信頼厚い重臣だった清兵衛さんがこの門を通って昼夜問わず藩主に会いに行ってたんだろうと想像します💭(※因みに藩主の住む御殿は二の丸にもあったもよう。)

画面右側の、館跡南東の角には『御館庭園』があります↓

御館跡敷地内には手前に役所や接客用の御殿が建っていて、奥に殿様の屋敷が建っていたそうです。表御殿の大広間や使者の間からはこの庭園が眺望できるようになっていたそうですよ💡
はるばる山路を越えて人吉藩入りした各使者達は座敷からこの庭園を眺めてしばし癒されたことでしょうね🌱

北側奥に鎮座する相良神社の拝殿。
藩主の館も恐らくこの辺にあったのだろう。

それではこれから、境内東側から三の丸•二の丸•本丸に通じる石段を登って先に進みましょう👟

古井戸の脇を通って
案内表示に従って階段を登ります。
結構登ります💦
石段を登りきって、西側の武家屋敷街跡を眼下に望む

三の丸 / 於津賀社跡

三の丸の北端には於津賀社跡があります。↑
以下、現地解説板を引用します↓

 初代相良長頼の入国前の人吉城主であった平氏の代官の矢瀬主馬祐をまつる霊社跡である。第2代頼親が建立し、初めの頃御墓(塚)大明神という。文明16年(1484)に再興され、元和年中(1620年頃)於津賀と改め、寛永7年(1630)に造替された。
 社殿は南向きで、板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在その礎石が残っている。

因みに人吉市史で読んだ於津賀神社の由来に関するストーリーが個人的に興味深かったので、少々長くなりますが皆様に共有させて頂きます💡冒頭でも述べましたが、鎌倉時代に相良氏が入国する前の人吉庄は平頼盛の采地で、中世人吉城は平頼盛の代官•矢瀬氏が治めていました。源頼朝は平家追討と同時に平家の所領を没収したのですが、ご存じの通り、少年の頃頼朝は平頼盛の母である池禅尼により命を助けられているので、その恩義を重んじて平頼盛に人吉庄を返還したそうなんです。で、鎌倉時代に入って平頼盛が死去した後も矢瀬氏は人吉庄を支配し続けていたのですが、恐らく西国の辺境に平氏の命脈が保たれていることを疎ましく思った頼朝が、相良氏を人吉庄の地頭として送り込んだのではないかとのこと。しかして建久9年(1198)の12月大晦日、城の明け渡しを拒んだ矢瀬氏を初代•相良長頼が滅ぼし人吉城に入城しました。相良氏が自ら滅ぼした矢瀬氏の祟りを鎮めるために建てたのかこの於津賀社です。
因みに人吉球磨地方にはこのような霊社が極めて多いそうです。霊社とは、非業の死を遂げたものの霊が祟りをなすために、祟りを鎮めるために神として祀ったものですが、この祟りを恐れる思想は球磨地方に深く根付いているそうです。そういえば、人吉には相良氏が滅ぼしたり裏切ったりした人達の供養塔もたくさんあるイメージです。例えば朝鮮の役での朝鮮人犠牲者を供養した耳塚、石田三成の供養塔、お下の乱の犠牲者の供養碑など。最初純粋に犠牲者追悼の為に相良氏は供養塔を建てたんだろう、優しいな、と思っていたのですが、祟りを恐れる気持ちも多分にあったのかもしれないと感じました。人吉球磨地方の思想•宗教は本当に興味深いです。

於津賀社跡から北側の球磨川を望む。対岸には人吉の街。見晴らしのいい立地で、相良氏の、矢瀬氏の霊に対する配慮が感じられます。

例によってお喋りが長くなりました💦三の丸南側曲輪に戻って散策を続けます。

画面中央、三の丸石垣の上には「塩蔵」が建っていたそう。塩蔵は山間の城としては特に重要だったとか。
塩蔵のあった三の丸南側曲輪に上がります。
三の丸から東側の二の丸石垣を望む。三の丸には当時から於津賀神社と塩蔵くらいしかなく、広大な広場が確保されていたそう。石垣の切れ目から二の丸に向かいます。
クランクになっている石段を降り、本丸•二の丸への登城口である中御門跡に向かいます。

中御門(なかのごもん)

画面中央石段が中御門跡。昔は石段の上には櫓が建っていて、櫓の床下をくぐる形の御門だった。
石段手前に櫓の礎石みたいなのが残っていますね。

余談ですが、私この御門の石段を登っている時、ふと訳の分からない不安感というか、悩ましい感覚がよぎりました。自分自身には全く身に覚えがない感覚だったので、恐らく昔ここを通って登城したお侍さんの思いが時代を越えて私の脳波と周波数が合ったのではないか、なんて妄想しました。殿様に会って話をする上で、悩ましい問題を抱えていた藩士がいたのかもしれませんね。いつの時代も勤め人はストレスが多いですから笑

御門を登りきって、上から枡形を望む

二の丸跡

中御門の石段を登りきると二の丸跡に出ます。二の丸には城主が住む御殿が建っていて人吉城の中心だった場所だそうです。(それにしても、なんで二の丸跡に杉の木植えたんだろ?)

二の丸跡の案内板。
ご興味のある方は拡大してお読み下さい。

それでは、二の丸跡を右手に見ながら、本丸跡へ続く石段を登ります👟↓

本丸跡

本丸跡に着きました。
まずは現地案内板を引用します。↓

 本丸は、はじめ「高御城」(たかおしろ)と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、茅葺きで四間四方の二階建ての護摩堂跡である。
 中世には「繊月石(せんげついし)」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特徴がある。

本丸に天守閣ではなく護摩堂を建ててある城って初めて見たんですけど、変わってますよね〜😳人吉市史によると、ここを諸神仏勧請、城中安全祈祷の護摩堂とし、願成寺(相良家菩提寺)6坊より交代で勤行させて、御先祖堂には御茶番に諸山の山伏を交代で差し置いたそうです。なんだかここでも人吉藩主•相良氏の、独特の宗教観が垣間見られて興味深いです。

この円形の石の跡は、何かの儀式に使っていたのかな?

因みに案内板にもあった「繊月石」についてのストーリーは以下の通りです。↓
鎌倉時代、初代•相良長頼が矢瀬氏を滅ぼして人吉城に入城し、城の修築を開始してすぐの正治元年(1199)1月3日に、城の西南隅から三日月紋様の霊石が発見されました。これにより人吉城は別名三日月城とも繊月城とも呼ばれています。この石は当初、本丸の祠に安置してありましたが、紆余曲折を経て現在は市指定文化財として人吉城歴史館に展示してあるもよう。(人吉城歴史館は現在豪雨被害のため休館中)相良氏入国以来から存在する霊石、繊月石がどんなものか気になりますよね?以下に、人吉市パンフレットから画像拝借。↓

人吉市「日本百名城 人吉城」パンフレットより

本当に綺麗な三日月模様が白く浮き出ていますね🌙人吉盆地も三日月形をしていますし、入国当時の相良氏にとっては神秘的な霊石に感じたことでしょうね。

さて、帰り道は中御門は通らず、二の丸北側にある、二の丸から直接三の丸に降りられる勝手口的な「埋御門(うずみごもん)」から降りましたので最後にご紹介しますね。

これまで通ってきたルートを現地案内板図に青字で記してみた。

埋御門(うずみごもん)

幅の狭い裏口的な?御門跡
埋御門から三の丸に降りる階段

この階段、実際降りてみて感じたんですが、正式な門である中御門より断然降りやすい!中御門の石段は防御の為や威厳を示す為もあってか、各段までの距離は広いし、高さも高くて登りにくかったです💦それに比べてこっちの埋御門の階段は実用的で上り下りしやすい!多分、使用人や侍女たちだけじゃなく、殿様や奥方様も普段はこっちの階段を使ってたんじゃないかな?と思いました。中御門は二の丸御殿まで遠回りだし、登りにくいので。

元来た三の丸南側曲輪に続くクランクを通って城下に降ります。秋晴れの清々しい散策日和の一日でした✨

あとがき

人吉城跡公園は、令和2年の豪雨災害による被災のため球磨川沿いの区域は立ち入り禁止となっていたため、球磨川からの船着場に設けられた「水ノ手門」や幕末に造られた西洋式石垣の「はね出し石垣」を見ることができなかったことは残念でした。球磨川沿いの区域は現在も立入禁止が続いているようなので、早く復旧工事が終わって見学できるようになればいいなと思います。

さて、人吉球磨散策シリーズは一旦ここで終わりますが、人吉球磨地方は文化財の宝庫なので(熊本県における国・県指定文化財のうち茅葺木造建築の約80%が人吉球磨地方に存在するという)、とても4回のシリーズで終われるような地域ではありません。機会があればまた別の史跡を散策して5回目以降の記事を作成•投稿したいと思っております。因みに人吉は西南戦争の激戦地のひとつでもあり、旧人吉藩士達によって結成された人吉隊は薩摩軍側につき、薩摩軍の人吉滞在は33日におよんだそうです。その間、西郷どんが犬を連れて趣味の狩猟に出かけたり魚釣りをする姿も見られたとか。人吉には西南戦争関連の史跡もたくさんあるようなので、西南戦争をテーマにした旅も面白そうだと感じました。

ふるさと歴史の広場に立つ西南の役の解説板。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
・人吉市史第1巻 人吉市史編纂協議会 1981年
・人吉市『日本百名城 人吉城』パンフレット
・人吉城歴史館パンフレット
・人吉市ホームページ
・人吉旅館ホームページ

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