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天草キリシタン館に『天草四郎陣中旗』を観に行ってきました✝️

こんにちは。先週末は熊本県天草市にある天草キリシタン館にて公開展示中だった『天草四郎陣中旗』を観に行ってきました!今回の公開は、『天草四郎陣中旗』の国の重要文化財指定60周年を記念して開催中の「天草キリシタンの美術と史実」と銘打った企画展の中で公開されていたものです。(陣中旗の実物の展示は11/1〜11/7のみ、通常はレプリカ展示)
日本史の教科書にも載っていた(多分)、島原•天草一揆(島原の乱)の際に原城の本丸にはためいていたという陣中旗の実物を観て震えが来るほど感動しました✨また、会場の天草キリシタン館は現在は城山公園(殉教公園)となっている中世山城•本渡城跡に立っており、キリシタン館の周りは天草の歴史に思いが巡る数々のモニュメントや案内板もありましたので合わせてご紹介したいと思います❣️(6500字)

企画展パンフレット。中央が今回実物が展示されていた天草四郎陣中旗です!歴史の教科書に載ってましたよね⁈
天草キリシタン館の場所はここ!

天草キリシタン館は、現在は殉教公園として整備された本渡城跡の丘陵をうねうねと車で登った先に建っています。私は天草キリシタン館は初めての訪問だったのですが、立派な建物でちょっとびっくりしました😳

天草キリシタン館エントランス

それも郷土史上名高い合戦の舞台となった本渡城跡に建っていることを恥ずかしながら現地に到着して初めて知って驚き感動した次第です😳

エントランス前広場にあった本渡城跡出土品の解説板

ということで、先ずは本渡城について軽く?歴史解説したいと思います💡

天草氏の居城•本渡城

天草といえば、江戸時代初頭に起こった島原•天草一揆(島原の乱)の総大将•天草四郎時貞がすぐ思い浮かぶ方が多いかもしれませんが、天草地方は天草四郎以前からずっとキリシタンが多く、キリスト教と縁の深い土地でした。天草は大矢野島•上島•下島の3島を中心とする大小120あまりの島々の総称になりますが、天草にキリスト教が伝えられたのは1566年で、フランシスコ•ザビエルが鹿児島に上陸してから17年後になります。そのころの天草は、天草五人衆といわれる5人の国人(在地領主)により分割統治されていたのですが、全員が洗礼を受けてキリシタンとなっています。戦国時代の天草は正にキリスト教王国みたいだったんですね〜⛪️豊臣秀吉の九州平定後は、肥後北部は加藤清正、天草を含む肥後南部(人吉相良領を除く)は小西行長が治めることになり、天草五人衆は小西行長の与力とされます。小西行長もキリシタン大名だし、キリシタンにとってはよかったじゃないか〜✨と思いそうですが、天草5人衆が小西行長の宇土城普請を拒んだことから天正17年(1589)天草は小西行長と加藤清正の連合軍により攻められることになります。(天正天草合戦)で、ここ本渡城は天草五人衆の最有力者、天草氏の一族の天草種元(洗礼名ドン•アンドレ)が城主だったのですが、城内にいた宣教師や周辺に住むキリシタン達も城に立て籠ったと言われています。この戦いの様子は宣教師ルイス•フロイスによって詳細に記録されローマに報告されていて、それによると、壮絶な戦いの末城主アンドレ種元とその子息は籠城した1300名のキリシタンとともに戦死し、一揆は鎮圧されたのですが、この戦いでは女性たちも鎧に身を固め戦ったことがフロイスの『日本史』には特筆されています。↓

300人の婦人は…(中略)…髪を切り、衣が邪魔にならないように裾をあげ、鎧や武器で身を固めた。大勢が冑をかぶり、コンタツのロザリオや聖遺物を首に掛けた。こぞってイエスの御名を唱えながら、勇気をふるい起こし、最大の激戦が展開している戦場を目指してまっしぐらに突入した。…(中略)…こうして彼女たちは全員が刀で殺され、戦場に身をさらした。

案内板「本渡城の歴史」より引用

なお苛烈に攻めたのは加藤清正の軍だったようで、清正勢も籠城側を超える2000人の死者を出したそうです。一方の小西行長はキリシタン同士の誼から城攻めには消極的だったようで、城内にいた宣教師と修道士、そして1000人以上のキリシタンを救出したとか。

余談なんですが、肥後は豊臣秀吉より加藤清正と小西行長に与えられる前に佐々成政が国主に任命されていたのですが、佐々成政の早急な検地により大規模な国人一揆が勃発して大事になったため(天正15年(1587)肥後国衆一揆)、佐々成政は責任を取らされて切腹になっています。その際蜂起した肥後の国人領主たちは見せしめもあり豊臣政権により根絶やしにされたのですが、この天草五人衆の反乱はその衝撃も冷めやらない天正17年(1589)なんですよね。(肥後国衆一揆については後日記事で取り上げたいと思ってます。)肥後国衆一揆の際の天草五人衆の挙動は明らかではないようですが、静観したか佐々成政側についたのでしょう。もし一揆側についていたら確実に処刑されているはずですから。で、せっかく国衆一揆を生き延びたのに、豊臣政権が派遣した次の国主の小西行長に歯向かうという2年前の二の舞みたいなことして、負けたら前回同様完膚なきまでに粛清されることをわかってたはずなのに、なぜ天草五人衆は蜂起したのかな、やめときゃいいのにと思ってしまったんですけど、参考にした文献には理由として五人衆が肥後国衆一揆の事後処理に不満を持っていたこと、また豊臣秀吉の禁教政策(1587年バテレン追放令)に不快感を示していたことが挙げられていました。

なにはともあれ、島原•天草一揆以前にも天草ではキリシタン達の壮絶な戦いがあっていたのですよね。島原•天草一揆の時のような殉教戦?とは違って領主が自己の領土と権利とプライドをかけて戦ったという印象ではありますが。

天草キリシタン館エントランス前からの眺め。

天草キリシタン館の正面下側(南東側)は城山公園(殉教公園)のなだらかな丘陵となっていて島原•天草一揆の犠牲者の慰霊塚『千人塚』やキリシタン墓地などがあるようなのですが、今回は下調べ不足と時間がなかったこともあり、散策はせずじまいでした。残念無念😂

エントランス前広場には、本渡城に関する解説板意外にも目を引くモニュメントがありましたので軽くご紹介します。↓

天草四郎時貞像
天草四郎像の横には、えっ、キリシタン燈籠⁉️

キリシタン燈籠に以前から興味を持っていた私は四郎像の横にひっそりと佇むキリシタン燈籠にちょっと興奮してしまいました💓この形式の燈籠は一般的には織部燈籠と呼ばれ、戦国時代の武将にして茶人だった古田織部が考案したとものとされています。竿の円部にアルファベットを組み合わせた記号が刻され、その下には像が刻まれているため、禁教時代にこれをキリストの像に見立てて崇拝したとの説があり、通称キリシタン燈籠とも呼ばれています。私は人吉市や八代市の歴史散策の際に同地に存在するキリシタン燈籠に興味を持ったのですが、軽く調べた感じでは、これがキリシタンが隠れて信仰していたという文字で書かれた明確な証拠がないため、研究されているのは主に郷土史家の方々で、学術的には真面目に研究されていないし否定的な印象を受けました。でも禁教時代に隠れて拝んでいたとしたら危険を犯してわざわざ文字で証拠を残す訳がないですし、謎めいたところがまた興味を引き立てると思いませんか?八代市で見つけたキリシタン燈籠について、いつか記事にしたいと思っているのですが、未だ手付かずです💦因みに館長さんに、外のキリシタン燈籠について尋ねたところ、あれはモニュメントとして作られたものですとのことでした。な〜んだ、天草に江戸時代から存在した本物のキリシタン燈籠じゃないんだ、、とちょっとガッカリ。。

さて、前置きが長くなりましたが、これからいよいよ企画展と天草四郎陣中旗のレポートに移りたいと思います❣️

天草四郎陣中旗

前述の通り、原城本丸にはためいていた陣中旗の実物を見た瞬間、メチャクチャ感動して泣きそうになった私✨興奮がある程度おさまってから、スポットライトを浴びてガラスケースに単体で寝かせた状態で展示されていた陣中旗を360°歩きながら長時間へばりついて味わいました。東京で展示されたら整理券もの、立ち止まらないでくださ〜い状態だと思うので、かなり贅沢な鑑賞でした笑展示されていた陣中旗の実物は残念ながら撮影禁止でしたので、なるべく現物を見た時の感動が伝わるように、以下文字でレポートしますね✒️

まず最初に感じたのは、想像していたよりずっと大きい!ということです。1m✖️1m位はあると感じました。次に、これまた想像してたよりずっと美しい!ということ。これまで見てきた文献やパンフレットに載っている写真から、私は勝手に薄汚れた木綿が麻製の旗だろうと思い込んでいたのですが、見た感じ上質な絹製、それも全体に美しい柄が薄く入っている金地の絹布のように感じました✨そしてなんといっても旗に描かれた聖杯と天使の絵。これは絵の審美眼を持ち合わせてない私から見ても、美術的にも素晴らしい出来だと感じました。聖杯を仰ぐ二人の天使の顔は彫りが深く、髪の毛がカールしていて明らかに西洋系。こんな絵がかける日本人が戦国〜江戸初期にいたのかな?そして聖杯の上には、中に十字架がある円形のものが描かれていて、十字架の上部には「INRI」と書かれた四角い札みたいなのが付いてます。これは何を意味するんだろう🤔
次に細部を見てみましょう☝️まず、旗の上辺と右辺についている竿を通すための各7個の紐状の細い布。じっくり観察してみたところ、紐の素材と縫い付け方が均一ではありません。使用しているうちにへたってきたのを都度、補修したのかな?そして最後にところどころについた茶色いシミ。これは後で確認したところやはり血痕の跡でした。しかし、所々血痕や刀槍でついたらしい損傷はありましたが、全体的にみて、戦場にあった軍旗とは思えないほど状態がよく、美術品の展示会かと思うくらい美しかったです✨と、ここまで書いたら皆さまにも細部をご確認頂きたいので、現物の写真は載せられませんがパンフレットの拡大写真を以下に載せますね。↓

布地の美しさはやはり写真ではわかりませんが、右側についた血痕の跡はわかりますよね?

こんなに大きくて美しい旗が、一揆のシンボル的存在である天草四郎の近くではためいていたら、一揆軍の士気もさぞ上がったことでしょう。

さて、素人の感想だけ聞いても「で?」って感じだと思うので、以下、購入した図録に載っていた天草四郎陣中旗の説明を要約して書いてみます。
天草四郎陣中旗は通称で、正式名称は『綸子地著色聖体秘蹟図指物』といい、寛永14年に起こった島原•天草一揆で一揆軍が立て籠った原城の本丸にあった四郎家前に翻っていたものです。一揆は翌年幕府軍の総攻撃で全滅するのですが、その際幕府軍の鍋島藩家臣•鍋島大善が戦利品として分捕り、代々子孫に受け継がれていたものが紆余曲折を経て現天草市に寄贈され、現在天草キリシタン館所蔵となっているものです。

指物(旗)は縦横108.6㎝の正方形で、中国製の絹織物と思われる卍くずしに菊花の地模様の白綸子。(白だったのか!金色に見えたのは絹布の光沢にライトが反射してそう見えたのかもしれません💦)
旗に描かれているのは、中央に聖杯(カリス)、その上部には十字架が描かれた聖餅(ホスティア)、そして聖杯の左右に合掌するニ天使。このような構図を聖体秘蹟図というそうです。上端には中世ポルトガル語で「LOVVADO SEIA O  SACTISSIMO SACRAMENTO」(いとも尊き聖体の秘跡ほめ尊まえ給れ)と記されています。そして私が不思議に思った十字架の上の「INRI」あらため「INRJ」の文字は、"JESUS NAZARENUS REX JUDAEORUM"(ユダヤ人の王ナザレのイエス)の頭文字を表したものだそうです。(最初の頭文字JじゃなくてIなのはなんでかな??あ、ギリシャ語?ラテン語?のIesusか。←独り言)
因みに絵の作者は判明していないようですが、有馬の画学舎か、長崎のコレジオで学んだ日本人絵師だろうと考えられているようです。また、この指物はもともとミサなどに用いられていたものを原城籠城の際に軍旗として転用したものと考えられているそうです。まさに島原•天草一揆の生き証人のような旗指物。巷では島原•天草一揆の原因、性質について様々な議論がなされているようですが、私はこの旗のピュアな美しさを観て、一揆勢には確かな信仰心があったはずだと感じました✨

寛永15年(1638)3月1日付細川忠利書状

この企画展では、当時の熊本藩主•細川忠利(細川忠興とガラシャ(玉)の子息で初代熊本藩主)が親戚筋の日出藩主に送った書状がもう一つの目玉として紹介されていました。天草四郎の首を取ったのは細川家家臣だったのですが、本書状は四郎討ち取りを含む2月28日の原城落城の過程を細川軍の視点で具体的に記すとともに、四郎の最期に対する忠利の本音が赤裸々に書かれた貴重な史料だそうです。私も知らなかった事実ばかりでかなり興味深かったので四郎が討ち取られた箇所を中心に以下に状況を要約します。

日暮れに本丸内に一番乗りをした細川勢は、すぐに本丸の建物群に放火しますが、放った火のために前進できず一揆勢と競り合いながら柵をこさえて持ちこたえ夜明けを迎えます。おおかたの建物は夜のうちに焼けてしまったのですが、一揆勢に守られた四郎がいる「四郎家」が夜明けとともに姿を表します。細川勢は忍の者に火矢を放たせ、四郎家を炎上させましたが、その中から逃げ出た人影を細川勢の雑兵•神野陳佐左衛門がすかさず組みつき、首を取ってしまいました。この討たれた人影こそが天草四郎その人だったのです。この四郎の最期について、細川忠利は「四郎と存じ候はば生け捕り申すべきものをと残多く存じ候。」(四郎と知っていたならば生け捕りにしたものをと残念に思う。)と書いています。実は現場指揮官の松平信綱は四郎を生け捕りにするよう諸大名に指示していたそうです。でも、幕府軍は誰も四郎の顔を知らなかった訳で、混戦の中で四郎を見定めて生け捕りにするのはかなり困難だったと思われます。

因みに天草(益田)四郎時貞は、キリシタン大名•小西行長の遺臣•益田甚兵衛の子で、一揆の総大将となった時は16歳であったと言われています。(因みに前述の天草五人衆の天草氏とは関係ありません。)幕府側は四郎の顔を知らなかったので、同じ年頃の首を四郎の母と姉に見せて特定したそうです。四郎の首はおはぐろを入れた綺麗な首だったそうです。

最後にちょっと嬉しかったエピソードを。エントランスの受付の横にご自由にお持ち帰り下さいと書かれて、可愛い手作りの紙袋としおりが置かれていましたよ〜🔖💕↓

もちろんしおりも紙袋もちゃっかりもらった私。紙袋は別途購入した企画展図録やパンフレットの持ち運びに大変重宝しました🙏こういうちょっとしたプレゼントは旅の記念にもなって嬉しいですよね☺️

いただいたしおり🔖
(ひとつは図録を買った際に追加でもらったもの)
どちらのタイプもセンスがあって可愛いデザイン!

あとがき

天草キリシタン館は島原•天草一揆を史実としてしっかり学ぶことができ、また一揆前後の天草のキリシタン史も豊富な史料と遺物で学べる立派な資料館でした。館長さんも気さくに色々教えてくださって、とても有意義な小旅行でした。天草四郎陣中旗の現物は、5月、8月、11月、3月の1日〜7日の各1週間展示公開されているそうです。天草の本渡にありちょっと遠いですが、一見の価値ありまくりの文化財だと思いますので、ご興味があれば足をのばされてみてはいかがでしょうか?

天草キリシタン館パンフレットの表紙を飾る天草四郎のイラストは、美人画で有名な天草市出身のイラストレーター•鶴田一郎氏によるもの。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献】
•天草キリシタンの美術と史実 ー天草四郎陣中旗と原城ー 展示図録 令和6年10月2日 天草キリシタン館
•天草キリシタン史概説 令和4年3月31日 天草キリシタン館
•天草市文化財調査報告書第3集 本渡城跡 天草市教育委員会 2010年
•おしえて島原•天草一揆〔一の巻〕 天草キリシタン館

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