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八代散策番外編 キリシタン大名小西行長の城 ✝️ 麦島城跡周辺 【前編】

こんにちは。今回は八代散策番外編として、麦島城跡とその周辺の散策レポートを投稿します。八代市には3つの城がありますが、これまでの記事では、中世の初代八代城・古麓城と、江戸時代の3代目八代城・松江城をご紹介しました。今回の麦島城は、豊臣秀吉が九州を平定した後、1588年に八代を任されたキリシタン大名・小西行長が築いた2代目八代城になります。麦島城は当時九州を代表する貿易港だった「徳渕の津」のほとりに築かれましたが、麦島城と徳渕の津、そして初代と三代目の八代城との位置関係を、徳渕の津跡の案内板画像を引用して下記に示します↓

因みに、「徳渕の津」前を流れる「前川」は江戸時代に造られた人口の川で、麦島城築城当時は「徳渕の津」は入り江にあった港でした。

小西行長統治時代の八代はキリスト教が栄え、たくさんのキリシタンが住んでいましたが、1600年に関ヶ原の戦いで西軍についた小西行長が刑死すると八代は加藤清正の所領となります。時代はキリシタン排除へと向かい、加藤清正統治時代の麦島城下でもキリシタンの殉教がありました。キリシタン殉教の歴史を伝える記念公園も城跡の近くにあります。

散策ルート紹介

今回の散策ルートをオレンジ線で表しています。散策マップは八代市(上)と麦島住民自治協議会(下)のパンフレット画像を拝借しております。

麦島城の縄張図を現在の地図に合わせたもの

本記事「前編」では、麦島城の大手口跡付近にある「シルバー人材センター」→麦島大神宮→麦島城跡から出土した瓦の一部が展示されている「麦島コミュニティセンター」までを、次回「後編」では、麦島城大天守跡→キリシタン殉教の歴史を伝える「列福記念公園」のルートで散策し、最後は前川の河岸から徳渕の津を臨んでフィニッシュです。それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️

シルバー人材センター

大手口の石垣の上に建っている八代市シルバー人材センター。写真は載せられないのですが、センターのロビーからは、地下に保存されている石垣の一部を上から見ることができます。看板の下の壁に麦島城の案内板が貼ってありましたので以下に引用してご紹介します。↓

案内板中央の推定縄張図は多分ちょっと古い。前述の散策ルート紹介に上げた縄張図画像が最新のものと思われる。

       麦島城二ノ丸跡
 ここは麦島城二ノ丸跡で、近くには「大手口」という地名が残されており、麦島城の入り口であったと考えられています。
 麦島城は、天正16年(1588)、宇土・益城・八代・天草の領主となったキリシタン大名・小西行長が、名和氏・相良氏時代の古麓城を廃して、重臣の小西行重(末郷)に命じて築かせた城です。当時麦島は中世以来の貿易港の徳渕の津と球磨川に挟まれた水運に適した場所でした。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、八代は加藤清正の治めるところとなり、麦島城も加藤氏の支城となりました。支城となった後、麦島城の改修が行われました。また、慶長8年には麦島城下でキリスト教徒の殉教がありました。元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると「一国一城令」が出されましたが、肥後国の加藤領は例外として熊本城と麦島城の二城が残されました。麦島城は同5年3月の地震で倒壊しましたが、幕府の許可を得て翌6年の2月に現在の松江城町で城の再建が始まり、同8年に現在の八代城(松江城)が完成しました。
 麦島城は中世の山城から近世の平城へ城の造りや立地が移り変わる時期に築かれた、九州で最も古い近世城郭のひとつです。
 平成12年(2000)1月〜3月にかけて、八代市シルバーワークプラザ建設に伴う発掘調査で、南北20mにわたる石垣が出土しました。石垣には合坂(あいさか)と呼ばれる階段部分がありました。石段は埋め戻されましたが、シルバーワークプラザのロビーにて合坂部分を見学することができます(平日のみ)。

そしてこちらが、当時大手口があったシルバー人材センター前から二ノ丸方面を眺めた図になります↓ ちょっと雰囲気残ってますかね〜

それでは次に、画面右奥の木々が繁っている場所にある麦島大神宮に向かいます👟

麦島大神宮

麦島大神宮については、もちろん懇ろにお参りさせて頂いたのですが、ここでは興味深い内容の由緒書のみ下記に引用してご紹介させて頂きます。

当社は永禄2年(418年前)9月18日の勧講にして麦島城の祈祷所として城代木戸作左衛門、加藤清左衛門等の信仰も厚く城下町として又祭□も盛なりし処天正年間小西行長によって社殿悉く焼失せしめらる。其の時の社守宮本三右衛門御神体を負い難を逃れ後小祠も建て奉安し寛永元年5月社殿を修築し、□来祭□再建等連綿致し来りし社にして明治4年8月村社に列せらる。昭和10年11月社地□□のため許可を得て麦島小学校跡地に移転。本殿屋根と銅板葺に幣殿拝殿を新築、菅原神社も移転修築せしもの今の神社なり。

秀吉の九州平定後小西行長領になった肥後南部の神社の由緒書には、麦島大神宮と同じように、小西行長によって焼き討ちにあったという記載をよく見かけます。そのせいもあって同時期に肥後北部を治めた加藤清正と比べて、熊本では小西行長の人気は低い気がします。八代市立博物館未来の森ミュージアムの学芸員・鳥津 亮二氏は、小西行長が領内の神社や寺院を焼き討ちしたという記述が見られるのは江戸時代以降で、安土桃山時代の当時はそんな記録は見当たらないことから、小西行長本人が命じて焼き討ちさせた可能性は低いと述べていらっしゃいます。ただ、領内の神社で同様の由緒書をよく見かけることから、小西行長統治時代の領内で何者かによって意図的に広範囲に神社仏閣の焼き討ちが行われたことは事実と考えられるため、その時期に貴重な文化財が失われたことは常々残念に思っています。

そういう先入観もあったので、麦島大神宮の由緒書にあった「麦島城の祈祷所として城代木戸作左衛門、加藤清左衛門等の信仰も厚く城下町として又祭□も盛」の記載にちょっと驚きました。「城代木戸作左衛門」というのは、恐らく木戸作右衛門の記載誤りで、前述した行長の重臣で麦島城を築き城代となった小西行重(末郷)のことです。キリシタンの彼が当初は麦島大神宮を崇敬し城の祈祷所としていたというのは驚きでした。また、「加藤清左衛門」というのはネットで調べてみたところ、小西氏が敗れた後の麦島城代となった加藤正方の父(当時は阿蘇内牧城代)のようです。(ネットで調べただけなので間違っていたらすみません💦また、小西家家臣・小西清左衛門の記載誤りだったらとんだ見当違いですが💧)小西氏と加藤氏は仲が悪かったと言われているので、小西家と加藤家の2人が揃って麦島大神宮を崇敬していたということは、秀吉から肥後の南北を分割統治するよう命ぜられて暫くは、小西家と加藤家は良好な関係を築いていたのかな、と妄想しました。朝鮮出兵以降、小西行長と加藤清正の関係が目に見えて悪化したことは有名ですが、年の近い2人(肥後入国時、加藤清正27歳、小西行長31歳)でしたから、最初は良好な関係を築いて協力して肥後を統治しようとしていたのかもしれませんね。領内の神社仏閣の焼き討ちについても、小西氏が肥後南部に入った当初は、秀吉のバテレン追放令もあってキリスト教の布教は行われていなかったようなので、神社仏閣とも共存できていたけれども、秀吉が亡くなって小西氏のキリスト教布教が本格化し領内のキリシタン人口が増えたことで宗教間の対立が激化した結果起こってしまったのかもしれないと妄想しました。

神社の由緒書をどこまで正確な史料と考えていいかは分かりませんが、神社の由緒書には文献等にも載ってないような面白い記述が見つかることもあって興味深いです。

ちょっとマニアックな話が長くなってしまいましたが、そろそろ次の「麦島コミュニティーセンター」に向かいます👟

麦島コミュニティーセンター

麦島コミュニティセンターには麦島城跡の発掘調査で出土した瓦や、堀跡から見つかった建物の部材の一部がロビーの一角に展示されています。まずは建物の脇に案内板が設置されているので見てみましょう!先程のシルバー人材センターの案内板と一部かぶりますが、内容を下記に引用します

 麦島城は、天正16年(1588)、宇土・益城・八代・天草の領主となったキリシタン大名・小西行長が、名和氏・相良氏時代の古麓城を廃して、重臣の小西行重(末郷)に命じて築かせた城です。当時麦島は中世以来の貿易港の徳渕の津と球磨川に挟まれた水運に適した場所でした。
 発掘調査では本丸、二ノ丸、三ノ丸の石垣や、本丸御殿跡、平櫓、瓦など多くの発見がありましたが、本丸跡の西側にあたる地点では小天守跡が発見されました。小天守跡の石垣は小西時代のものと加藤時代のものの二つの時期の石垣がありました。小西時代の石垣は自然の石灰岩を、加藤時代の石垣は粗割した石灰岩を使った野面積みの石垣です。小天守の石垣はそのまま埋め戻されて保存され、その上に道路が造られています。

少し補足させて頂きますと、コミュニティセンターの前には麦島地区を東西に貫く都市計画道路が通っているのですが、その道路建設に伴う発掘調査で小天守や本丸御殿跡などの遺構が発見されたそうです。(詳しくは散策ルート紹介の項の縄張図参照)発見された遺構は埋め戻されて道路の下に眠っていますが、その道路から小天守・本丸御殿跡が埋まっている東方向を眺めた写真がこちら↓

ちょうどここら辺が小天守跡の石垣が埋まっている場所で、その数十メートル先には本丸御殿の礎石や石垣が埋まっています。

因みに小天守跡からは、豊臣秀吉の許可が必要だったと言われる金箔鯱瓦が見つかり、麦島城が重要拠点と位置付けられていた証拠と考えられています。小天守跡からは他にも、小西行長が文禄の役で釜山から持ち帰った「隆慶二年」(中国の年号で西暦1568年)の年号がある滴水瓦も見つかっています。

さて、麦島コミュニティセンターに展示されている瓦の中には上記の金箔瓦と滴水瓦は含まれていませんが(多分とこかの博物館にある)、一つ面白い瓦が展示されていたので下記にご紹介します。推定「天」軒丸瓦です。↓

これは軒丸瓦の中心に「天」または「元」と読める文字が記された瓦で、全国でも麦島城の1点しか見つかっていないそうです。麦島城では、小天守と二ノ丸で、ばらばらになった状態で見つかったとのこと。小西時代に造られた日本製の瓦と考えられています。

この瓦、とても興味深いですよね!皆様はこの文字、何を表していると推測されますか?「天下国家」の「天」、「伴天連」の「天」、もしくは当時キリスト教の象徴的な用語から採ったものか、はたまた「元」だとしたら何を表現したものでしょうね〜、妄想が膨らみます。何かいい説が思い浮かんだら是非コメントで教えてください❣️いずれにしても、これが麦島城だけにあった瓦だとしたら、小西行長の強い意志が感じられるユニークな瓦だと思います✨

「前編」のまとめ

麦島地区は上の都市計画道路の写真のように、綺麗な道路が碁盤の目状に通っていて、比較的新しい住宅街といった風情で、一見するとそんなに古い歴史のある地区には見えないのですが、そのギャップが面白いと感じました。また、麦島コミュニティセンターには上述の「天」軒丸瓦の他にも出土品が多数展示してあり、さらに、本記事でもたくさん参照させていただいた、麦島住民自治協議会作成の立派なパンフレット冊子が設置されていて、地元の方たちの地元の歴史に対する熱意が伝わってきて心を動かされました。最初にご紹介したシルバー人材センターでも発掘された石垣を地下に保存して見られるように展示してありますし、このような形で地元の歴史的遺構を大切にして活用していくのは素晴らしいと感じました✨次回「後編」では、麦島城天守台跡および八代キリシタン殉教者列福記念公園をご紹介予定です。次回も宜しくお願いします!

八代市の中心地、西松江城町にある「八代市立博物館 未来の森ミュージアム」の外観。伊藤豊雄氏の設計。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【引用文献】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット p.6
・麦島住民自治協議会『よみがえる麦島城』リーフレット冊子 p.6

【参考文献・HP】
・八代市『八代城ものがたり』パンフレット p.6
・麦島住民自治協議会『よみがえる麦島城』リーフレット冊子
・麦島住民自治協議会『たんけん!はっけん!国史跡 麦島城』
・宇土市デジタルミュージアム 小西行長Q&A

アクセス情報はこちらから↓


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