山中智恵子歌集 国文社
再読である。以前にも書いた覚えがあるので再掲となるかもしれない。
1977年版の現代歌人文庫中の1冊。
山中智恵子の前半とでも言っていいのか「紡錘」全編、自選歌集として「空間格子」抄「みずかありなむ」抄「虚空日月」抄「未刊歌集」抄、の他、歌論3篇、プライベートルーム4編。他に北川透、原田のぶ雄、高柳重信氏の評論がつく。短歌は皆さんで読んで頂きたいとして、今回書くのは歌論などについてだ。
先に読了した「ねむらない樹 vol9」で水原紫苑、川野里子、大森静佳女子が引き合いに出していた寺山修司のチェホフ祭の話題はこの歌集の歌論に含まれている「内臓とインク壺ー私性」のことだ。
この話題が今回の私の山中智恵子探求月間と引き金となった。この山中の歌論の課題は内臓(つまりは自分の内側の物)とインク壺(自分の外側のもの)であるが、ご想像の通り、自分の内にあるものを、外のインク壺にペンを突っ込みインクを吸わせ「表現する」ことについてである。山中智恵子の文章が非常に難しいので詳しくは書かない。
ただ、最後に山中が引き合いに出した短歌を1つ
ああひとり 我は苦しむ 種々無限 清らを尽くす 我が望ゆえ(釈迢空)
山中の好きな歌、創作仲間の身近な歌なども引き合いに出されて楽しめる。
他に山中の歌への歌論で原田のぶ雄の「神いますー山中智恵子論」が初期から75年辺りの山中の歌の変遷を辿って面白い。
山中智恵子の短歌としては「未刊歌集」抄に「滄浪ぞ清める」として村上一郎への追悼歌30首が収録されている。
村上一郎は「1975年に武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自殺を遂げた。享年54。」(wikiより)一般的には右翼のテロリストと言われているが、そのような簡単な言葉で表せる人ではない。
そんな村上と山中は親交があった。
追悼歌から
おどろかぬことのかなしも刃の死を恋ひつつついに遂げしきみはも
怒涛なす明晰の死よ見返れば一行の詩に世界凍らむ