邪馬台国はどこ? #3 インドネシア・ジャワ島説
邪馬台国の場所に関する記事を以前に2つほど書きました。最初はエジプト説、次は沖縄説です。どちらも安易には信じ難い説ですが、まだまだ珍説・奇説はあります。今回紹介するのは、邪馬台国・インドネシア説です。
邪馬台国・インドネシア説を唱えたのは、内田吟風さんです。この説は、下記にリンクを張った『珍説・奇説の邪馬台国』(岩田一平著)で紹介されています。内田さんは、明治40(1907)年生まれで、京都帝国大学史学科を卒業し、神戸大学、佛教大学、龍谷大学で教授を歴任し、神戸大学の名誉教授となっています。元々は東洋学の専門家で、匈奴史、北アジア史、騎馬民族史の研究をしていた、その道の権威です。
内田さんは、邪馬台国はインドネシアのジャワ(JAVA)島にあると主張しています。一見、この説はトンデモ説のように感じますが、その根拠を見ていくとただのトンデモ説には思えなくなります。この本で紹介されている内田さんの論拠は以下の通りです。
1)魏志倭人伝には「郡より女王国に至る万二千余里」とあるが、当時の漢魏の1里は420mほどなので、万二千余里だと5,000kmとなる。その距離だとインドネシアの、スマトラ島・ジャワ島・バリ島などになる。
2)古代中国人は、朝鮮半島から東南アジアの熱帯の島々までにいた海洋民族を倭と呼んでいた。倭が、日本列島のことを指すようになったのは『隋書』以降のことである。
3)東晋の法顕という僧が著したインドへの留学を記した『仏国記』という書物では、法顕はインドからの帰途、獅子国(スリランカ)から90日ほどかけて耶婆提(ヤバティ)国に寄航した。この耶婆提が、ジャワ島のことを指していた。
また、この説を補強するような次のような間接的な証拠も挙げています。弥生時代の頃、東南アジアのフィリピンやベトナム、シャム湾あたりでは、稲・雑穀を栽培し、甕棺で埋葬するサフィン文化が栄え、南インドでも同じ頃甕棺葬が広まったらしい。そして同じころ、朝鮮半島南部や九州北部でも、甕棺葬が大流行している。これらの流行が、東アジア~南インド沿岸の地域で同時期に起きていることは、海の道でこれらの地域がつながっていたことを示唆していると考えられる。
内田さんの邪馬臺・耶婆提・Yavadvipa考という論文は、次のように結ばれています。「邪馬台国に関する熱帯南洋記述を無視または等閑視して、邪馬台国を、無批判的に日本乃至日本内の一地に速断比定し、従ってまた更に中国史籍の邪馬台国記事を以て我国上古の皇統・神道・庶民生活の史料とし、さらにこれによって日本書紀等の所述を批判改変、否定するが如き従来の学説に対しては根本的な再検討が必要と信ずる」
邪馬台国が本当にジャワ島にあったかどうかは別として、先入観を捨てて邪馬台国についてゼロから考えてみるのも、必要かもしれません。この説について考えていたら、”倭人=(じゃ)わじん”や”JAPAN=JAVAN”という妄想が浮かんできました。邪馬台国・ジャワ説、意外とイケルかもしれません。