自分劇場
映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を見た
48時間(300円)以内なら、何回でも見られるというので、5回見た
何度見ても、また見たいと思う映画はそうそうあるものじゃない
間違いなく今年一番、いや、近年を振り返っても一番といえる映画だった
私は、三島がこの世を去った後に生まれているので、当時の社会の空気は、映画の中で説明されているものとしてしか感じられないが、駒場東大には、2回ほど学園祭に遊びに行ったことがある
今日のタイトルを作品名ではなく「自分劇場」としたのには、理由がある
マルセイユタロット・西洋占星術・カバラを学んだ際に、師匠である大沼忠弘先生から古代ギリシャの哲学者プラトンの「洞窟の比喩」を教わった
人間のほとんどは、縛られて後ろから光を当てられ、スクリーンに映し出された「影」を見てそれを「実体」(人生そのもの)だと思い込んでいる
我々が現実だと信じてみている物が、イデアの影だという
イデアとは、物事の本質であり、目で見ることができる形や物ではなく、心の目・魂の目でみることのできる「原型」である
(※ここを理解するのには、マルセイユタロットの学びがとても役に立った、正直、言葉で伝わるものではなく、体験・体感を通じて、心の目で見るとはどういうことか?を訓練していくのが、タロットの学び-特に中級編のパスワーキングを中心にしたもの-だったからだ)
天才的な作家・三島と、東大全共闘屈指の論客・芥という二人は、本来、同じ「山頂」を目指していたと感じる
ただし、思い描くシナリオが違い、上りゆく道が違った
芥は「自分劇場」の中で何物にも縛られることのない完全なる自由という解放区の必要性を訴え、
三島は「自分劇場」の中心に天皇がいる、全日本国民共通であること、また象徴としての天皇が、日本国そのものと個人とを、まるで一心同体のようにしてつなぐ「戦前の天皇」の存在の必要性を訴えた
『天皇の料理番』という作品にも「戦前の天皇を共通認識(象徴)として持っていた人たちの生き方」が描かれる
天皇の料理番
敗戦直後の日本で、天皇の料理番をする主人公の葛藤を描くとてもよいドラマで、すぐに原作を入手して、文字でも読んだ
主人公をはじめとする登場人物たちの中には、三島が伝えたかった「自分劇場の中心に天皇がいる世界」が描かれている
そんな日本人とは対照的に、あるアメリカ人元兵士は、戦場での日本人との対決で、倒したのにそれでも立ち上がって向かってくる「気迫」がトラウマのようになっている場面が描かれる
戦時中の日本人の精神性の源が象徴(天皇=国=愛国心)であり、それは、三島映画の中で討論される「主体性をもった他者」ではなく、「日本国民全員が共通してつながることのできる認識の扉」なのだ
どんなに辛くても、悲しくても、絶望的な状況でも、その扉をあけるとそこはみんなが集まるところであり、愛する人がいて、大切な想いがあり、情熱の根源となるものであふれている
タロットを学んだときのことにもう一度戻ると、講座の中で大沼先生は「圧倒的に不利だったギリシャ軍が、敵に勝つことができたのは、全員が心の中に戦いの女神アテネ(象徴)を信じたからだ」という話をした
戦士全員が「自分劇場」の中心に、アテネを思い描いたことで、自分がもつ「個」としての力を超えたものを発揮したのだ
私は、国際結婚をしているので、夫がどんなに長年、国外で暮らしてきても、いっこうに祖国の事を誇りに思い(発展途上国、後進国と言われ続けてきているバングラデシュ)、自らの「国民性」を大切にしていることに、何度も心を打たれてきた
「私には、こんなに強い愛国心がない」
夫の愛国心の根拠となるものは、何か?といったら、バングラデシュにおいては、自然と共に暮らす農村部ののどかな原風景なのかもしれないと思う
話を戻すと、日本人は、ギリシャで言う女神アテネ(象徴)、バングラデシュで言う農村部(原風景)、そして国の成り立ちを教える(歴史)というすべてを抜き取られてしまった
そんな状態で、愛国心が芽生えるはずもない・・・
しかし、不思議なことに、三島や私のように、海外に出る頻度が増えてくると、自然と心の内側に「日本」があることに気づくようになるのだ
世界のどこにもない、日本にしかないもの(目に見えるもの、見えないものすべて)が、世界に出て初めて見えてくる・・・
映画の中で、芥が「あなたは日本人という枠がなければ存在できない」と言うと、三島は「おお、それでいいんだ」とはっきりと答える
象徴、原風景、歴史まで奪われても、なお、心の内側から湧き上がってくる「日本」とは、いったい何か?
それは、実際にそれを感じたひとりひとりの答えがあると思うし、内側から出てきたものだからこそ、誰かに教わったり、強要された「知識」ではなく、一度、感じてしまったらもうそこを止めることができない情熱になりうるものだ
最近、話題のペンキ画家ショーゲンさんの伝えてくださる「本来の日本」には、天皇という象徴すら存在しないが、それもまた「一度でも自分の内側に日本を感じたことがある」経験をした人なら、いわんとしていることが、よくわかるというものだ
今後、日本はかつてない様々な試練が降りかかってくると思う
大変な事態になってみれば、間違いなく日本人も愛国心を取り戻せると思うけれど、
今一度、ひとりひとりが「私の自分劇場の中心に何があるのか?」を見つめてほしいと思う
その価値観を共有できる人がいるか?
共に命をかけて、背中をあずけて、戦えるか?
圧倒的に不利な戦いでも、勝ちを確信できるか?
三島はこの講演の1年半後に自決している
講演の中でも、その話題にふれているから、この時には、彼は「自分劇場の最後のシーン」を決めていたのだろう
気づけば、三島の去った後に生まれた私も、三島の年を超えてしまった
三島の肉声、そして命をかけて未来の日本人に投げかけたものを、私は受け取り、のちの世に伝えていきたい
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