見出し画像

「おいしい制約」

「おうち時間」 大人も子供も食べやすくていいね。
「ソーシャルディスタンス」 このレストランきれいだね。
「新しい生活様式」 従業員もよく教育されているし、このお店なら安心。
みんな美味しそうだし、嫌いな人なんかいないんじゃない?

開店当初は「ほんとうに美味しいの?」と訝る声もチラホラあったものの、今やすっかり市民権を得たようで、人々は違和感なく暖簾をくぐっています。でも、私はいまだにこれらの店名に馴染めずにいます(あくまでも「ネーミング」の話。食事=行動は適切な振る舞いを「自分なりに」しているつもりでおります)。このするっと万人受けしそうな杏仁豆腐感。のどごし良さげで、家でもいろいろな食材でアレンジして我が家の食卓に取り込めそうなメニューがたくさん。いやいや、どんな添加物が入っているか確認しましたか? 

スローガンにひねりは不要です。簡潔にあまねくヒトビトに浸透させなければならないのですから、これはこれでいいのです。しかし、これらの言葉のえも言えぬ「柔らかさ」はなんでしょう。なんというか「噛まずに食べられそうな」と申しましょうか。ひねくれものは「これを機会にこんなものも成分にふくませちゃえ」なんて考えてやしないかと勘繰ってしまいます。

広告に元気がなくなって久しいと思います。はっとするようなフックのあるコピーが見当たらない。マスメディア主導の時代が終わり、より欲望を直截的に刺激する言葉があふれています。ミもフタもないというか。コピーからモノやコトを買うということの「その先・その末・その周辺」を考える、なんてことはもう流行らないのでしょうか。

私のコトバとの付き合い方に大きな影響を与えた雑誌が「広告批評」でした。この雑誌があったから、広告の面白さだけでなく、そこに潜む怖さ(とりわけコトバを通して)を知ることができた。中でも白眉は定期的に特集企画が組まれた「戦争中の広告」と、巻頭の橋本治の連載エッセイ「ああでもなくこうでもなく」でした。橋本治によって「物事のななめからの見方」を学んだような気もします(責任とれ)。コロナ後のこの世界を、天野・島森コンビだったらどう料理したでしょう。橋本治はどう語り、どうケツをまくったでしょう。

固いものも厭わずに、よく噛んで(考えて)顎を鍛えよう。何歳までも自分の歯で噛めるように。風が吹けば誰が儲かるか位は想像しながら。いつまでも「ああでもなく、こうでもなく」ブツブツ言っていられるように。

 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?