大河ファンタジー小説『月獅』74 第4幕:第16章「ソラ」(9)
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第4幕「流離」
第16章「ソラ」(9)
(ソラは白虎のライと共に、ノリエンダ山脈の北壁で暮らしていた)
流れるように二年が過ぎた。
ノリエンダ山脈の北壁では、一日一日が生きていくための挑戦である。天卵の子は、人の子の三倍の早さで成長する。四歳になったソラは、十二歳の体格を持つ少年に成長していた。
ぴしっ。
極限まで凍りついた空気を切り裂き矢が走る。
「ライ、しとめたぞ」
白銀の虎の背に仁王立ちになっていた少年は、ぱっと背から飛び降りて駆ける。
吾に乗って翔けたほうが速いというのに。
雪に足をとられ滑るように駆ける少年の後姿に白虎は苦笑する。ひと翔けで追いつき「乗れ」と命じると、ソラはぷいっと顔を背け、脇をすり抜け派手に雪煙を巻きあげながら駆けていく。
近頃、ソラは従わぬことが増えた。いよいよ子別れすべきか。
北壁の獣たちに畏れられる吾が、このような些事で逡巡するようになろうとは。ライは吹き荒さぶ風に顔をしかめる。
虎の幼獣はおよそ二年で狩を習得し独り立ちする。ソラは出合ったとき、すでに二歳であった。天卵の子は人の子よりも成長が早い。だが、人の子は長く親と過ごすと、猩猩が言っておった。しかるに、己を賢者とうそぶく彼らですら、人の子別れの時期を尋ねても、はきとした答えを得ることはできなかった。
ライがソラとの子別れをためらう理由は、今ひとつある。
共に暮らし始めてすぐにソラは弓をこしらえた。弓が人間の使う飛び道具であることはライも知っている。
ソラによると、ノアという男がこしらえてくれた弓は、コンドルにさらわれたときに矢もろとも落としたらしい。ノアがこしらえる様を隣で見ていた。記憶をたどりながらの初作は、矢が飛ばなかった。きっと枝のしなりが足りなかったんだ、とすぐさま代わりの枝を見繕いに洞を飛び出ていった。イチイやセイヨウネズなど種類や長さの異なる枝を何本も持ち帰り、火を熾し、枝をたわめる。矢羽根を集める。手刀で削る角度を少しずつ変える。弦の張りを確かめる。まともに飛ぶ弓ができあがっても、飛距離を伸ばし精度を高める工夫を怠らない。
獣もむろん狩のしかたを工夫する。だがそれは、身の伏せ方であったり、跳躍の角度や喰らいつきかたであったり、獲物の逃走経路の先回りであったり、いずれも己の躰の使い方だ。人のように力を道具で補うという発想がそもそもない。
人間の狩をライは侮蔑していた。己の力を高めずに道具に頼るとは無様な、と。孤高の猛虎の矜持といえよう。
ソラと狩をするようになって、その認識がたちまちに瓦解した。
ライは間合いを見切り雷のごとく一撃でしとめる。ゆえに雷虎と畏れられる。狙いを定めた獲物を逃したことはない。ただし、間合いを詰める必要がある。一跳でしとめられる距離まで気配を消して近づかねばならない。ところが、弓を使えば遥かに離れた場所からでも獲物をしとめることができる。たとえ一矢でしとめられなくとも、傷ついた獲物を追うことはたやすい。駆けながら背にまたがったソラは二の矢、三の矢を放つ。
狩のしかたが劇変した。己の跳躍力を鍛えても超えられない壁は厳然とあった。それを弓はやすやすと無効にしたのだ。
道具とはこれほどのものかと、驚嘆した。
だからといって、ソラ一人では狩を成功させることは難しい。羚羊や熊ほどの躯体になると一矢では致命傷とならない。傷ついた獣ほど狂暴になる。斃すにはライの一撃が必須だった。互いが互いを必要としたのだ。子別れをためらう真の理由は、まさにそこにあることをライは自覚していた。
敗北の予感は、道具の力を認めた日から地下水脈のようにあった。
冬山はあらゆるものの気配を閉じ込める。
嶺に渦巻く風の嬌声を除けば、山に響くのは枝に積もった雪のずり落ちる音とコンドルの羽ばたきくらいだ。獣たちの駆ける足音まで雪がのみこむ。
静謐の世界。それが突如、破れた。
ドン。ドン。
二発、鈍い重低音が地を這い雪嶺を震撼させた。
振動であちこちの枝からいっせいに雪が落ちる。白い雪煙が舞いあがる。
嗅いだことのない焦げた臭いと共に、ライの右の腹に鈍い痛みが走った。矢は刺さっていない。敵の姿も見えない。正体はわからないが、飛び道具のしわざであることは確実だ。
ライは背に乗っていたソラを振り落とし、「逃げろ」と低く唸る。
「いやだ」
ソラは銀の眸を爛々と光らせ、まなじりを吊りあげ睨み返す。
ライは舌打ちし周囲の気配を探る。
右の岩陰に一人。斜め前方の巨木の根元に一人、左の崖下に一人、左後方の崖下にも二人。右後方の崖上に二人。いずれもライの渾身の跳躍でも届かない距離だ。
いつのまに。ぎりっと奥歯を噛み締める。
雪が音を消すといえど、狩に夢中になり異変に気づかなかった。囲まれている。不自然に斜め後方の道だけが開いているが、おそらく罠だろう。
新雪に血がぽたりぽたりと滴る。
慢心していた。ソラと狩をするようになり、生きるためのひりひりする緊張感が、いつしかなくなっていた。それが、このざまだ。
飛び道具の恩恵にあぐらをかき、飛び道具にしてやられるか。
ぐるるっと喉を低く鳴らすと、ライはソラの首をさっと咥え、背後へ放り飛ばす。
ソラの躰が放物線を描いた瞬間、四方八方から白虎に向けて飛び道具がいっせいに火を吹いた。
ド、ド、ドン、ドン、ドン、バン。
小山のごとき体躯のいたるところを礫が貫通する。純白の毛並みが、みるみるうちに赤く染まる。それでもライは四肢を踏んばり、びくともしない。どころか、礫の飛来した方角を舐めるように順に睨み、地鳴りのごとき咆哮で威嚇する。鋭い牙に冬の光が反射する。
ドン、ドン、ドン、ドン。
また、礫を吐き出す音が高山にこだまする。
「ラァアアアアアーーーイ」
ソラが甲高い声をあげて駆けて来る。馬鹿が。逃げろ、と命じたのに。
もはや駆け寄り盾となってやることもできぬ。
「来るな!」
振り向いて短く叱咤するライの右前脚の膝を、礫が一発、貫いた。とうとう己の巨体を支えきれずライは膝をつく。それを最後に攻撃が止んだ。
やはり、か。
狩人たちの狙いは吾であり、同じ人としてソラを傷つけるつもりはないのだ。ライはソラの無事を確信すると、どうっと雪煙をあげて、斃れた。
「ライ、ライ、ライ。いやだあぁあああ。ラァアアアアアーーーーーイ」
雪を蹴散らし駆け寄ったソラは、ライの首に抱きつき、喉が千切れるほどの嘆きの慟哭をあげた。
そのとたんだ。すさまじい光の柱が天を衝いた。
ソラの全身から光が迸り出で、太い柱となって天を貫く。
遠ざかる意識の果てにライが目にしたのは、神々しさなど微塵もない赫く禍々しき光であった。
(to be continued)
第75話に続く。
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第1幕「ルチル」は、こちらから、どうぞ。
第2幕「隠された島」は、こちらから、どうぞ。
第3幕「迷宮」は、こちらから、どうぞ。
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。