大河ファンタジー小説『月獅』50 第3幕:第13章「藍宮」(3)
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第3幕「迷宮」
第13章「藍宮」(3)
シキの足が遠のいたのを寂しく思っていたころ、珍客はとつぜん現れた。
ラムザ王子の喪が明け、新年を迎えてまもないころだった。王族は新しい年を迎えるとひとつ歳をとる。カイルは十六歳になっていた。
藍宮の庭に石造りのささやかな泉がある。
その日は朝から晴れ、泉に張った氷も冬の日に溶けかけていた。泉のかたわらには蜜柑の木がたわわに実をつけている。ひとつもぎ採ろうとカイルが手をのばしたときだ。
ばささっ。
籬から愛猫のシュリが飛び出した。いちもくさんに駆けて来る。抱きかかえようと広げたカイルの腕を無視し、蜜柑の幹をしなやかに肢体を伸縮させ駆けのぼった。その直後だ。
ばさばきっ、ざざっ、バキバキ、どさっ。
小枝を折りながら猫を追って何かが籬から頭を突き出し、勢いあまってつんのめり倒れこんだ。
難を逃れたシュリは、蜜柑の枝で総毛を逆立ててうなっている。
「なにごとですか」
物音を聞きつけ、ナユタを先頭に近侍が走り寄る。
「なんと。キリト王子ではございませんか」
不審者を取り押さえ、ナユタが驚愕する。
「ここは、どこじゃ」
毛織の上着に短袴をはいた男児が、四つん這いのまま顔だけあげる。籬に引っかけたうえに、溶けた雪で湿った土にまみれ泥だらけだった。顔にも細かな傷がついている。
「藍宮でございます」
「藍宮とな。では、カイル兄上の宮か」
さっと立ち上がる。怪我はないか確かめようとするナユタの手を振り払い、カイルのもとに駆け寄る。
「カイル兄上、お会いしとうございました」
「キリト殿か。従者はどういたした」
「宮をこっそり出てきました」
十一歳の弟宮は誇らしげに胸を張り、明るい瞳をくったくなげに見開く。
「まいりましたな」
ナユタがとほうにくれた視線でカイルを見る。
アランに続いて第三王子のラムザまで逝去し、次の王太子が空位の微妙な時期だ。藍宮がキリトを拉致したなどと、あらぬ嫌疑をかけられるのは避けねばならない。
カイルはナユタにうなずき返す。
「後宮までお送りいたしましょう」
ナユタが立ち上がると、
「いやじゃ……いやじゃ、いやじゃ、いやじゃあ」
最後は絶叫だった。溶けた雪のぬかるみに尻をつき、空を仰いで泣きじゃくる。その激しさに、ナユタとカイルが圧倒される。
カイルは蜜柑をひとつもぎ取るとキリトの前に膝をつき、
「よく熟れて甘いぞ」と弟宮の手にのせた。
袖口で涙をぬぐい、濡れた瞳をまたたかせる。掌の蜜柑とカイルを交互に見やる。
「枝からもいだゆえ、毒の心配はない。食べてよいのだぞ」
カイルがうながすと、
「このまま……ですか」と首をかしげる。
そうか。宮では剥いて皿に盛ったものしか供されぬのであったな。
翡翠宮では、庭の果樹はカイルやカヤが自ら採って食べていた。採るのが楽しいと、カヤは木に登り手に余るほど収穫しては侍女たちに分け与える。他の宮ではあり得ぬ光景だったのだと、カイルは思い知る。
皮を剥いて房を分け、キリトの掌にのせる。
「ほら、うす皮ごと食べてごらん。こんなふうに」
カイルはひと房、自らの口に放りこんでみせ、キリトを木陰の長椅子に掛けさせる。
「キリト殿は、なにゆえ宮に帰りたくないのか?」
「兄上が、ラムザ兄上がお隠れになってから……母上は宮を出ることを禁じられます」
細い肩を落としてうつむく。
第一王子のアランが落命するまで、ラサ王妃の関心はもっぱら王太子のアランに向けられていた。まさか次男のラムザまで儚くなるとは予測もしていなかったのだろう。将来の王位を担うものとして厳格に育てられた二人の兄宮とは異なり、末弟のキリトは王位から遠いため、よく言えばのびのびと甘やかされ、自由にふるまうことを許されてきた。
それが。アランとラムザの死により一変した。にわかに監視が厳しくなったのだ。
兄を一度に二人も失った寂しさもまだ癒えておらぬのに、自由まで奪われ我慢がならなかった、と眦をあげる。
「それで、抜け出してまいったのか」
どうやらキリトにも脱走癖があるようだ。これまでは後宮を抜け出しても咎める者がいなかったのをよいことに、アラン兄上の紫雲宮をひんぱんに訪れていたらしい。
「……閉まっておりました」
門には閂が渡され、鍵が掛かっていた。入れるところはないかと塀に沿って歩いていて、虎猫のシュリを見かけ追いかけてきたという。興味がくるくると移るところまで、カヤに似ている。カイルの口から自然と笑みがこぼれる。
「真珠宮のものが探しておるであろう。隠れていてはかえって事が大きくなり、ここへの出入りを禁止されるかもしれぬ。そうなってもよいのか」
激しく首をふる。
「ならば、藍宮を訪れていると伝えてもよいな」
短袴をぎゅっと握りしめてうなずく。
「次からは、断りを入れてから来るのだぞ」と諭すと、ナユタがカイルの袖を強く引く。
柱の陰に引き込んで声を潜め、「これ以上、関わられるのは」と濁す。
キリトは猫を追いかけ、明るい笑い声を立てている。カイルは柱に背をもたせ、無邪気に走り回る弟宮の姿を眺める。うすく晴れた冬の空を鷲のハヤテが旋回していた。
弟が兄に会う。ただそれだけのことが、ままならぬとは。母が異なるというだけで、有象無象の淀んだ思惑が絡みつく。王宮とはまことに魔宮である、とカイルは瞼を閉じる。自らに流れる王族の血を厭わしく思わなかった日などない。一刻も早く臣籍降下し、ハヤテのように自由に世界を飛び回りたいものだ。
「真珠宮の判断にゆだねるしか、しかたあるまい」
「キリト殿下。これは臣の独り言とお聞きください」
ナユタはキリトの盾になるよう半歩斜め前を行き、前方を見つめたまま低く沈んだ声で背後に語る。子どもに諭したところで、詮ないことかもしれぬ。だが、カイルに不要な嫌疑がかかることは排除せねばならない。
「納得のゆかぬことかもしれませんが。殿下の行動が、カイル様を窮地に追いやり、お命を危うくするかもしれぬことを、どうかお心にお留めおきください」
「それは……なにゆえじゃ。吾が兄上のお命を奪うとでもいうのか」
「そうではありません。殿下がどれほどカイル様をお慕いしようとも、殿下の意思とは関係なく、動く者がいるということです。それらの者は、殿下のためという大義名分を盾にいたします。キリト殿下に王位を継いでほしいと望む大人たちにとって、カイル様は敵とみなされるのです」
「吾が、王位など望まぬと言ってもか」
「殿下のご意思は関係ございません」
ナユタはきっぱりと打ち消す。
「キリト殿下が王太子となられ、ゆくゆくは王位に着かれることが肝要なのです。そのためであれば、どのような手段も用いるでしょう」
キリトはぎゅっと唇を結んで、後宮の門につくまでひと言も話さなかった。
子どもには酷な話であったかとナユタの胸は軋んだが、ひと月も経たぬうちにその思いを撤回した。
(to be continued)
第51話に続く。