大河ファンタジー小説『月獅』 第1幕:第4章「蝕」<全文>
第1章「白の森」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第2章「天卵」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第3章「森の民」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第1幕「ルチル」
第4章「蝕」
森の心臓部にある「萌の褥」は王の玉座だけあって、川原の荒廃とは隔絶し、濃く深い緑に包まれ清らかな光が降りそそいでいた。
六歳の夏に見た白の森と変わらず、懐かしさと安堵がない交ぜになりルチルの目尻から熱いものが溢れる。銀苔も厚く層をなしている。白銀に光る鹿の王がそのすらりとした四本の脚で下草を踏みしめるたびに、足あとから花が咲き草が伸びる。王の息吹が森に命を吹き込む。
後ろから従っていたルチルは、光をまとって歩む王が時おり頭をさげ草に息吹を吹きかけるたびに、二本の琥珀の角のあいだから何か白く大きな物が見えることに気づいた。苔と草のもっとも厚い褥の中央に、白い楕円形の塊が鎮座している。王はためらいなく進むと、その隣に脚を折って横たわった。銀色の繭のようなそれは、体躯が並みの鹿と変わらなくなってしまった王とほぼ同じくらいの大きさだった。ルチルの目は繭に釘付けになる。
「そちたちも腰を下ろすがよい。楽にいたせ」
「すまぬが他のものは見張りの鷹をのぞいて、しばし席を外してくれぬか」
王は周囲の毛ものに目配せする。繭を守るように取り囲んでいたものたちは、たちまち姿を消した。それを確かめてからシンが「では、お言葉に甘えて」と王の前に胡坐をかく。ラピスがぴょんとその膝に乗る。ルチルはためらいがちにシンの隣に座った。苔がクッションのようにやわらかい。
「ルチルよ。これが何かわかるか」
王は自らの隣にある白銀の物体に鼻先を向ける。
「大きな繭に見えます」
「明察じゃ。繭であり、これこそが蝕の正体である」
えっ? 意味が飲みこめず、ルチルは助けを求めるように王からシンへと視線を泳がせる。だがシンは、ルチルの動揺はおろか、膝の上の娘の存在すら忘れているかのように王を見据え微動だにしない。王はかまわず続ける。
「朕は森の誕生とともに千年あまりの永き時を生きてまいった。いわゆる不死の存在といえよう。だが、ずっと生きながらえてきたわけではない。なぜなら朕はことしで齢百五十にすぎぬからな」
ルチルはまた混乱する。王の言葉は謎かけのようだ。千年も生きてきた不死の存在が、なぜわずか百五十歳なのか。どういうことか。
王はルチルの困惑を楽しむように、翡翠の双眸をきらめかせる。
「はは、勘定が合わぬか」
王は軽く笑って、真顔にもどった。
「朕はおよそ二百年に一度生まれ変わる。再生する、といえば良いかの。それを蝕という。いにしえより五度の再生を繰り返してまいった。此度が六度めの蝕である」
「どうじゃ、これで算術は合うたであろう」
ルチルは小さくうなずき、「では」と尋ねる。
「蝕のたびに王は新しい王に生まれ変わられるのですか。古い記憶を忘れられるということですか。蝕が終われば、私の前にいらっしゃる王様、話をしている王様とは、もう会えないということですか」
「そちは賢しいな。まあ、待て。順を追って話そう」
「先走ってしまい、失礼いたしました」
ルチルは紅潮した頬を掌でおさえ慌てて平身低頭する。
「そう畏まらずともよい。大要だけをかいつまんで語ろう」
王は横たわったまましなやかな首をすっと立てる。琥珀の角に木漏れ日が反射し玉体をつつむ。体躯が小さくなっても、神々しさは変わらなかった。
「蝕は、朕が幼体を産むことから始まる。幼体は鹿としての本質を継ぎ、成体と同じ姿で誕生する。だが自然界の鹿の赤子とは異なり、極めて小さい。生まれたては鶏の卵ほどの大きさにすぎぬ。その生まれたての幼体を、朕の口から吐きだす糸でくるみ繭をこしらえる。幼体は繭の中で日ごとに大きうなる。成長にともない繭も大きくせねばならぬ。これがひとつめのリスクとなるかの」
繭を日々大きく紡ぐことが、なぜリスクになるのか。ルチルは尋ねたくなる衝動を奥歯でこらえ王を見つめる。
「それのどこがリスクなのか、という目をしておるな」
「繭を紡ぐことは、さほど骨は折れぬ。だが幼体は日増しに成長するゆえに朕はその作業に勤しまねばならなくなる。森への目配りがおのずと手薄になる。かすかな綻びに気づきにくうなる。此度の流行り病の初動に遅れをとったのも、それゆえ……と、気づいておるのであろう、シンよ。敵はそのわずかな綻びを狙ってきたと」
王は突然シンに話をふる。
「は、ご明察にございます」
シンが王を見据えたまま答える。
「なれど、これは前触れでしかございません」
「さよう、たいしたことではない」
蝕にはもっと大きな危険があるというの?
ルチルは鳩尾をきゅっと強張らせ、天卵を抱きしめる。
「ルチルよ、朕の躰が縮んでいること、不思議に思わぬか」
「びっくりいたしました。あんなに立派なお躰でしたのに。何があったのですか」
いちばん訊きたかったことだ。
「朕は糸を吐いて繭をこしらえると申したであろう」
ルチルはうなずく。
「繭は幼体を保護するためにこしらえるが、それが主眼ではない」
「かように」
と言いながら、王は口から銀の糸を吐き、傍らの繭に挿す。
すると繭が透けて光りだした。
王とよく似た透明に光る白銀の鹿が一頭、首を丸めてうずくまっている。銀の糸が繭のなかをするすると進むと、頭をもたげ伸びてきた糸をくわえた。赤子が母の乳首にくらいつくような自然な動きだった。
「糸を介して幼体と朕はつながる。肝心はこれにある」
「蝕とはな、つづめて申せば、新しき器に朕を移し替えることである」
「幼体が新しい器ですか」
「さよう。そちも知っておるであろうが、自然界にはさまざまな再生の形がある。蜥蜴の尻尾もそうじゃ。体を半分に切られても再生するプラナリアしかり。だがな、彼らはもとの身の欠けた部分を再生するにすぎぬ。全部を入れ替えるわけではない」
「永く生きておるとな、さまざまな澱が溜まってくる。あちこちに不具合も生じる。それを人は老化と呼ぶのであろう。新しき器を得ることで、それらをいったん解消する。それが蝕の目的である。そうやって千年、朕は森を守ってきた」
「ただし、移し替えは慎重を期する。注ぎこむ力が幼体の成長を上回っておると、器は破裂する。ゆえに朝露のごとく、ひと滴ずつであらねばならぬ。力の移し替えが進むにつれ、幼体は大きうなり、朕は小そうなる。すべての力を注ぎこむと蝕は完了し、ひと世代前の朕は消滅する。およそ一年を費やす」
「一年」ルチルがオウム返しでつぶやく。
「さよう。今がちょうど折り返し点である」
「さて、シンよ、このあとはどうしたものかな。この先まで、ルチルに森の秘密を語ってもよいものであろうか」
王は深い信頼を宿した翡翠の瞳をシンに向ける。同じ翡翠色の瞳をしていても、シンの瞳はまだ若く触れれば切れそうな真剣さで王を見つめていた。
「蝕が完了するまであと半年。天卵はまだ孵っておらず、ルチルはレルム・ハン国の王宮に追われる身。わずか半年では、たとえルチルに悪意があろうとも一介の少女に何もできぬのではございませんか。蝕さえ滞りなく完了すれば、王の力、ひいては白の森の力は元どおりになります」
「うむ、そうであるな」
シンの同意を得ると、王は再びルチルに視線をもどす。
「今のところ朕の力の半分は幼体に移し終え、朕は本来の力が半減している状態である。よって、これから半年がもっとも危険となる」
ルチルは小首をかしげながら尋ねる。
「王様の力が半分以下になっても、幼体にそのぶんの力が備わっているのであれば、力を合わせればよいのではないのですか」
「俺も前から疑問に思っていた。何しろ森の民とはいえ俺だって蝕を実際に目の当たりにするのははじめてだからな」
シンがルチルの問いに己の疑問を重ねる。
「残念ながら幼体は繭から孵るまで力を発揮できぬ」
王の声が静かに響く。
「繭とは人の子における子宮のようなものでな。人の子も羊水のなかで成長するが、月が満ちて生れ落ちぬかぎり何もできぬであろう。それと同じと考えればよい。加えて」
王はひと呼吸だけ口を噤み、ふたりを眺めやる。
「蝕が終わらぬうちに、不測の事態で孵ってしまうことでもあろうものなら、そこで力の受け渡しは強制終了となる。つまり、次世代の朕は不完全な状態として生きねばならぬ。一度かようになると、爾後に続く世代は欠けたまま力を継いでいくことになろう」
ルチルは愕然とする。
「修復はかなわないということですか」
「ああ。朕の再生は、元あるものをそっくりそのまま移し替えるものであるからな。甕の水を別の甕に移し替えるようなもの。蜥蜴やプラナリアのように、失うたものを復元するのとはちがう」
「そういうわけでな、幼体の力を使うことはできぬ」
王は静かに吐息をもらす。
「では、これまではどうやって危機を乗り越えてこられたのですか」
「蝕が起こっているかは、森の外のものは知り得ぬ。そもそも蝕というものがあることも知らぬはずなのだ。たいていは森が潜在的に備えておる力で対処できる。ゆえに半年をひそりと過ごせば朕は新しく生まれ変わることができておった。此度はそうはいかぬようであるがな」
王はルチルにうすく笑ってみせた。
「王よ、もう一つよろしいですか。これまでの倣いであれば、数年のずれはあろうとも、蝕はおよそ二百年に一度と伝え聞いております。五十年も早まったことなど、かつてあったのでしょうか」
シンの声音は真剣であった。ラピスが膝の上から父を見あげる。
「此度が初めてじゃ」
「なにゆえ」
「それは朕にもわからぬ」
「あの」と、おそるおそるルチルが口をはさむ。
王とシンがそろってルチルを振り返る。
「蝕がいつ始まるか、幼体をいつ産むかは、王様がお決めになられるのではないのですか?」
「それを決めるのは朕ではない」
「では、だれが」
「蝕は突然始まる。予測もできぬし予兆もない。時が満つれば始まる。この世の命はすべてが循環しておる。朕もまたその環のなかにある。此度はその巡りが五十年早かった。それが何を意味するのか」
王は首をふる。
「おそれながら、蝕が早まったことと、ルチルが天卵を宿したことに関わりはあるのでしょうか」
シンが膝を進めて尋ねる。ラピスがシンの膝からずり落ち尻もちをつく。
シンは気にも留めない。
「それも朕にはわからぬ。天の差配……であるかもしれぬな」
「天…」
ルチルはつぶやきながら、萌えの褥に降り注ぐ光の先を、目を眇めて見あげる。
そのとき、光の中から何かが弾丸の速さで一直線に降下してきた。ルチルは反射的に卵を背でかばった。
「王!」
バサッ。
鋭い羽音をたてて一羽のオオタカが舞い降りた。
「ご会談中、御免! 緊急事態ゆえご容赦たまわる」
「何事か」
「レイブン隊がルビ川沿いに火矢を放ちました」
「くっそ。もう気づきやがったか。王宮のしもべどもめ」
シンが舌打ちして、鷹に詰め寄る。
「それで、どうなった」
「レイブン隊のカラスは、我らが追い払いました。火矢もほぼ空中で捕捉いたしました。なれど一本だけ取りそこね、ルビ川の川原に着弾。現在、川は堰き止め中のため即座の消火かなわず、川原が燃えております」
「わかった。朕が鎮火しよう。怪我をしたものはおらぬか」
王が問いただすと、オオタカは顔を背けた。
「くちばしを火傷しておるではないか、診せてみよ」
王は褥から立ちあがり、オオタカのくちばしに琥珀の角をかざす。すると、赤く爛れていたくちばしの傷がみるみる癒えていく。
これでよかろう、と言うと、王はそのまま角先を地面につけ四本の脚で下草を踏みしめる。
それは不思議な光景だった。
どんな技を使っているのかルチルには見当がつかなかったが、王が四肢を踏ん張って気を集中させるにつれ、体躯に光が集まり、それらが王の四肢と琥珀の角を通じ、エネルギーが白い稲妻のごとく地面を駆ける。
「王は川原の火を消されている」
ルチルの隣に並んだシンがささやく。
「気が乱れるゆえ、話しかけてはならぬ」
これが千年、白の森を守ってきた王の力なのだとルチルはふるえた。
そのときだ。
王が左の前脚の膝を折ってうずくまった。
「王!」
シンが駆け寄る。
「結界のひとつが破られたようだ」
王の透けた胴体の中ほどに朱色の斑点が浮かびあがっていた。
シンが目を瞠る。
「シンよ、どこに血腫が浮かんでおる」
「左の脇腹の背側中央あたりでございます」
「ならば、東の遥拝殿か」
ルチルの顔面が蒼白になる。
――東の遥拝殿が破られたですって。お父様やお母様、エステ村のみんなはどうなったの。
ルチルは心配と不安で錯乱する。
喉の奥がごぼっと変な音を立てた。慌てて褥から下り、ふらふらとおぼつかない足取りでさまよう。耐えきれなくなって叢に嘔吐した。酸っぱい胃液が後から後からあがってくる。同時に目尻から涙がこぼれ出て止まらない。これまで必死で胸の裡に抑えこんできた不安が逆流した。霞んだ目は臓腑から溢れた吐瀉物だけをとらえていた。
気づくとルチルの隣にシンが膝をついている。
「ごめんなさい。森を汚してしまって」
「汚した? 君は森に養分を与えたんだ。見てみろよ」
シンが指さす。吐瀉物は跡形もなく消え、嘔吐したあたりには新芽が生い、緑の蔦がくねくねと伸び、慰めるようにルチルの頬をなでる。
「ルチルよ、心配せずともイヴァン殿はおそらく無事であろう」
「父をご存知ですか」
「はは、イヴァン殿だけではない。四村の領主殿には、祭壇の御簾越しではあるが、会うておるわ」
「イヴァン殿は東の遥拝殿を王宮の追手に明け渡すことで、村人を守ったのであろう。それが娘を危うくすることになろうとも、領主としての責務を貫いたのじゃ。常であれば、遥拝殿に踏み込まれても、何人たりともそれより先には進めぬ。森が排除するからの。結界が破られたことにさぞかし驚かれたであろう。そなたのことを心配しておるであろうな」
そうだ。お父様は、卵を守ることだけを考えろとおっしゃった。
アトソンは「お館様には村人を守るっちゅう使命がありなさるっちゃ」と言っていた。
お父様は領主としての使命を貫かれている。私も自分の使命を果たそう。
「朕の躰は森の縮図でもある。森に異変があれば躰に現れ、どこで起きているかもおおよそ察しがつく」
白の森の王はルチルの眼前に立つと、二本の琥珀の角が聳える頭を垂れた。
「ルチルよ、すまぬ。今の朕の力ではそなたも天卵も守ってやることができぬ。それどころか、森にとどまれば病に感染する危険もある」
「王様どうか、どうか頭を上げてください」
畏れ多さにルチルが懇願する。
「よもやここで時間切れとなるとはな。すべてを語ることかなわずか。だが、朕が話さずとも、天卵の子とともに進めばいずれ知ることになろう。大海のいずこにか『隠された島』がある。かの島であれば、追手に気づかれることなく天卵の子を育てることもできよう。隠された島をめざすと良い」
「隠された島……ですか。それは、海のどこにあるのですか。どうやって行けばいいのですか」
「いずくにあるかは、だれも知り得ぬ。常に嵐に守られてあるとも、海をただよう浮島だとも伝えられておる。朕も見たことはない。だが、そちが抱いているのが天卵であるならば、卵が導いてくれるであろう」
王の言葉に応えるように胸の前で抱えた天卵が明滅する。
「ありがとうございます。ひとときでも私たちをかくまってくださり心より感謝申し上げます。これ以上白の森に迷惑をかけるわけにはまいりません。行きます。『隠された島』へ」
「追手は東の遥拝殿からやって来る。今の朕の力では排除できぬ。そなた裸馬には乗れるか」
ルチルは首をふる。
「鞍なしで乗ったことはございません。それに卵を落とすわけにはまいりません。速くはないけれど走ります。広い森のどこに私がいるか、追手は知り得ません。そこに分があります。深い森で人ひとりを探すのは難しいものです」
「まあ、待て。俺が乗せていこう」
今にも駆けだそうとするルチルの肩をシンの厚い手が押さえる。
「王よ、しばしの間、ラピスをお願いします」
「承知した」
ルチルは膝をついてラピスを抱きしめ、「ありがとう。またね」と小声でささやく。ラピスは小さな指でルチルの頬に残った滴をぬぐってくれた。ルチルはラピスを離すと立ち上がり、「失礼します」と断りを申してから、王の細い首におそるおそる手を回す。
「ありがとうございました。ご恩は決して忘れません」
「うむ。息災でな」
王は琥珀の角で光をはらい、ルチルの額に口づけ、加護を与える。
「シンよ、頼んだぞ」
「御意」
森の奥から漆黒の馬が駆けて来た。
「こいつはタテガミ。白の森のなかではいちばんの俊足だ」
黒く光る長いたてがみが風になびいていた。濡れたような艶やかな毛並みが、降りそそぐ光を乱反射させてきらめく。なんて美しいのだろう。いつだったかお父様が、黒毛の馬は青馬と呼ぶのだよと教えてくれた。ルチルが緊急時であることも忘れて見惚れていると、背後からシンの大きな手に腰骨をつかまれ軽々とタテガミの背に乗せられた。どこを持てばいいのかわからず、漆黒のたてがみをそっとつかむ。シンがひらりとまたがる。
「もっとしっかりと首に手を回せ」
「タテガミ、カーボ岬だ。ルビ川の川原からできるだけ迂回して岬へ。追手をまくぞ」
シンが脇腹を足でひと蹴りすると、タテガミはひと声高く嘶いて弾丸と化した。
二刻ほど走ったろうか。かすかに潮の香のようなものが鼻先をかすめた。
「停まって!」
ルチルが叫ぶ。
「どうした。あと半哩ほどで岬だぞ」
シンが漆黒のたてがみをあわてて引く。
「だからよ」
言いながらルチルは馬から降りる。
「潮の香りがする。海は近いのでしょ」
「これ以上、シンにも、タテガミにも」と言いながら、ルチルはタテガミの顎をなでる。
「白の森にも迷惑をかけるわけにはいかない。ラピスにはお父様が必要よ」
シンもタテガミから降りる。
「王宮が追っているのは、私と天卵。身の安全を考えたら、見つからないのがいちばんだけど。でも、それじゃだめ」
「きっと彼らは私たちを見つけるまで森を荒らすわ。白の王様の力は、これからどんどん弱っていくのでしょう?」
「私たちが森から出たと、もう森にはいないのだと印象づけなければ。そうすれば、追手は少なくとも白の森からは撤退する。私には政はわからない。けど、王宮だって愚かではないはずよ。彼らにとっての脅威は天卵の子であって、森ではない。白の森は千年この国を支えて来たのだもの」
シンは黙している。
「ルビ川沿いは樹々が枯れて、空から丸見えなのでしょう? レイブン・カラスの偵察隊は戻って来ているはず。彼らに私が海に出たことを目撃させる。干あがったルビ川を行けば、海まで最短でたどり着けるし、カラスの目にもとまりやすい」
「この二刻ほどの間にずいぶんと成長したじゃねぇか」
シンが腕組みをしながら、ふんと鼻をならす。
ふふ、とルチルは笑みを噛みころす。
運命の急転は、人をいやでも大人にする。わずか一日足らずで、少女は大人になった。陽だまりのように幸せだった子どもの時間と思い出に、ルチルは訣別しようとしている。鳶色の瞳に覚悟がやどる。
「シン、ありがとう。あなたのこと、森の民のこと、もっと知りたかった」
「もう俺とラピスだけになっちまったからな。絶滅危惧種なんだよ、俺たちは。外のやつらとおんなし人間なのによ」
シンが吐き捨てるように言う。
「どうして森の民は秘密にされてきたのか。どうしてシンとラピスだけになってしまったのか。尋ねたいことは山ほどある。でも、もう行くわ。シンはラピスのもとに戻って」
ルチルが両手でシンの手をつつむ。
「ルチル。幼い君が森の褥で介抱されたとき、俺もあそこにいたんだぜ。毛皮を被って毛ものたちに紛れていたけどな。はじめて森の民以外の人間を見た。驚いたよ。話には聞いてたが、角も生えてなければ、牙もない、俺たちと何もかもが同じ女の子がいたんだからな。けど、この子は森にいることはできないし、俺が森の外に出ることもできない。何なんだろうと思った」
シンが玉座のある萌の褥の方角を仰いでから、ルチルに視線をもどす。森の緑がその瞳に映る。
「伝えられていることが真実とは限らん。真実は巧妙に隠されることのほうが多い」
「だから。自分のここでな」と頭を指す。「考えることさ」
「真実は知ろうとする者の前にだけ、姿を現わすんだ。よおく覚えときな。俺も、君も。やっかいな運命のもとに生まれたようだ」
シンの翡翠の双眸が痛いほどまっすぐにルチルをとらえる。
「ここを突っ切ればルビ川に出る。森のこと、俺たちのことを考えてくれて感謝する」
「生きろよ。俺もラピスと生きる。天の思惑なんてそくらえだ。いつかまた会おう」
シンはルチルの両肩をぐっとつかんだ手を放すと、タテガミにまたがった。
タテガミはシンを乗せたままルチルの周りをゆっくりと一周する。長く豊かな墨色のたてがみが風になびいて美しい。
やおら前脚を高く掲げると駆けだし、まばたきほどのうちに漆黒の肢体が銀の森の奥へと消えた。あとには一陣の風が渦巻いていた。
ルチルも反対方向へとはじけるように駆けだした。
はぁ、はぁ、はぁ。
ルビ川をめざしてルチルは木の根道を走る。時おり立ち止まって呼吸を整え、天を仰ぎ見る。だが、光に透ける葉裏は厚く重なり、まだ、空は見えない。急がなければ。王宮の追手が森を踏み荒らしてしまう前に、私はここに居ると彼らに目撃させなければ。
そのときだ。右足を盛りあがった木の根に引っかけ転びそうになり、卵をかばって地面に膝をついた。なめし革の靴が、ぱかりと裂けている。しかたない。両足とも脱ぎ捨て顔をあげると、視線の先が明るいことに気づいた。樹々がところどころ立ち枯れしている。見つけた、ルビ川だ。
ルチルは川原を駆けおり、明るい空の下に走り出た。
抜けた空を見あげる。
レイブン隊はどこ?
鷹が天の高い位置で大きな翼を広げ旋回している。警戒態勢をしいているのだろう。あの鋭い目をカラスは避けることができるのだろうか。
だが、ここから先はそんなことを考えている余裕はない。空から丸見えの川床を追手に姿をさらしながら、追いつかれずに海までたどり着かなければならないのだから。
ルチルはできるだけ目立つように、干あがったルビ川の真ん中を駆け抜ける。
森は突然、途切れた。
急に視界が全方角的に開け、明るくなった。樹々はまばらで、膝丈ぐらいの草の原が海風になびき、緑の波が打ち寄せる。海鳴りが聞こえる。
ルチルは膝に両手をあてて大きくひとつ息をつき、潮風を胸いっぱいに吸いこむ。
この先にあるのは、カーボ岬だけだ。
崖脇の細い獣道を伝っておりれば洞窟があり、そこに小舟が舫いであるはずだ、とシンは教えてくれた。「木の葉みたいに小せぇ舟だけどな。それに乗って行け」と。
でも、それじゃだめだ。
ルチルは天を振り仰ぎ、黒い影を探す。
いた!
松の木の梢から黒い羽が飛びたった。連絡係が報告にいったのだろう。同じ枝にもう一羽いる。
波が高い飛沫をあげて崖に幾重にもぶつかり砕ける。足がすくんで震える。
ひとつ大きく深呼吸すると、ルチルは覚悟を決めた。
「よく、見ておきなさい。そして、ちゃんと王宮に報告するのよ。エステ村領主の娘は天卵を抱いて海に沈んだと!」
最後は絶叫だった。
空に向かって叫ぶと、ルチルは助走をつけ、切り立つ断崖から荒海へと放物線を描いて身を投げた。
そのとき、何かが天空でチカッと光った。
それは光の矢となってルチルの後を追い、海にダイブした。
第4章「蝕」<了>
第1幕「ルチル」<完>
第2幕 第5章「漂着」に続く。
#創作
#ファンタジー小説
#連載小説
#長編小説
#みんなの文藝春秋