大河ファンタジー小説『月獅』59 第3幕:第15章「流転」(2)
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
第3幕「迷宮」
第15章「流転」(2)
ここまでか、とラザールは顔をあげる。王子はとにかく、王妃が感情を激させている。臆することなく、一歩も退かぬ交渉術。粗削りではあるが、なかなかのものだ。磨けば光る玉となるだろう。
「お鎮まりくだされ」
低く鋭い声が床を這う。不穏な空気が、一瞬にして鎮まる。けっして大きな声ではなかったが、平素は森のごとく穏やかなラザールの一喝に王妃はその無礼を詰るのも忘れ、碩学の賢者を凝視する。キリトもラザールに相対して屹立する。
「王妃様は、キリト様をまことに健やかにお育てになられましたなあ」
二人の視線を受け止め、ラザールは激した空気をなだめるように話す。
「キリト様ぐらいのお歳頃の子は巣立ちを前に不安と本能から、親の慈愛の比翼にむやみに抗います。王子がことごとく王妃様の命に抗われるのは、大きく羽ばたこうともがいておられる所以であろうと臣はお見受けいたします。臣からことをわけてご説諭いたしますゆえ、王子と臣と二人だけにしていただけませぬか。なお、ゆめゆめキリト様の御心を踏みにじるような軽挙をなさりませむよう。それこそ親子の絆に取り返しがつかなくなりますこと、ご賢察のほど伏してお願い申しあげます」
語り終えると深く頭を垂れた。
「相わかった。キリトの室を使うがよい。頼みましたぞ」
王妃は扇をひと振りして立ち上がり、右の扉より退室した。
キリトの居室は中庭をめぐる左の回廊を折れた最奥にあった。そこに至るまでに二室あり、立太子前のアラン王子とラムザ王子の室だったのだろう。閉まってはいるが錠前は掛けられていない。おそらく内は生前のままであろう。主を失った部屋は静かだ。前を通るとき、ちらりとキリト王子が開かずの扉に目をやる。その背からは先ほどの覇気は消え淋しさが滲んでいた。
「なにゆえ、兄上ではなく吾を選んだのじゃ」
部屋に入るなりキリトはくるりと向き直ってラザールに尋ねる。
「お待ちあれ」といったんキリトを制し、ラザールは廊下を窺ってから扉を閉める。扉前には警護の衛兵が立っていた。
キリトの侍従が二名、部屋の隅に控えている。王族には自由もプライバシーもない。それらを横目で確認し、ラザールはキリトにおだやかな笑みを向ける。
「僭越ながら、殿下は堅苦しいのがお嫌いとお見受けいたします。今日は気持ちのよい晴天にございます。あちらの四阿でお話いたしましょう。いかがですかな」
「おお、それはよい」
キリトが顔を明るくする。駆け出す勢いで、両開きの掃き出し窓を押し開ける。庭園には獅子の口から水のこぼれる石造りの小さな池があり、四阿は池に架けられた橋の中ほどを広くとって、しつらえられていた。庭は兄弟の三室に面している。数年前まではこの庭に三王子の笑い声が響き、水遊びに興じたことであろう。
「こっちじゃ、早う」と王子はラザールの手を引く。王妃との理詰めの態度とはうってかわって、まるで子どものはしゃぎようだ。その天真爛漫さがまぶしい。叶うのであれば、ゆっくりとお育て申し上げたかったが、事態は逼迫している。急いで大人になってもらわねばならぬ。
「兄上たちとよくここで遊んだ」
足もとの小石を拾い池に投げ入れて、キリトはラザールを振り返る。水紋が広がる。
「ラザール、そちは、吾のどこがカイル兄上より優れていると思うて、吾を選んだのじゃ。そちと会うは、今日が初めてのはず。どこぞで吾のことを見ておったのか。それともシキから聞いたか。吾は兄上ほども学問はできぬぞ。吾のどこに見所があった」
真剣なまなざしでたたみかける。ごまかしを許さない目だ。
うわべだけの言葉で褒めるのは容易い。だが、そのような無責任な甘言ほど人を空疎にするものはない。自身を取り巻く世界の実態を知り、どう立ち向かうべきかを考えてもらわねばならぬ。魑魅魍魎のほうが権力の亡者たちよりもよほどまともだということも。清濁併せ呑む心の剛さを持ってもらわねばならぬ。
ラザールは柔和な表情を消す。
「王子のお人柄も資質も関係ございません。そのようなことは慮外にございます」
「吾の見所は関係ないと申すか」
「残念ながら。むろんカイル殿下の資質も関係ございません」
「では、なぜ吾なのじゃ」
キリトには納得のゆかぬことは許さぬ気構えがある。
「それを開陳いたす前に、王子にお尋ねしたき儀がございます」
よろしいですか、とキリトに請う。
「かまわぬ、なんなりと問え」
ラザールは四阿の欄干に立ち、立木の茂みと空をなめるように見回す。さすがに真珠宮の庭にはレイブンカラスの姿はないようだ。侍従たちは橋のたもとで控えている。侍女も茶の用意だけして下がった。四阿にはキリトとラザールの二人だけだ。それを確認すると、改めて王子の前に跪拝した。
「王子の偽りなき御心をお尋ね申し上げたい。兄上のカイル殿下のことはどのようにお考えでござりまするか。カイル殿下を排して王太子になりたいとお望みでしょうか。この老臣に王子の本心をお教えくださりませ」
なんだそんなことか、とキリトは晴れやかに笑う。
「吾は兄上をお慕いしておる。すばらしいお方じゃ。シキから聞いておらぬか。兄上にこそ王位を継いでいただきたい。ここだけの話じゃが」と声をひそませ、上体をかがめラザールの耳もとに口を寄せる。
「アラン兄上より、カイル兄上のほうが優れておられる、と吾は思う」
にたり、と口角をあげ頬を紅潮させる。
「それを伺い、臣の覚悟も定まりました」
「ならば、父上にカイル兄上の立太子を薦めてくれるか」
ラザールは首を振る。
「いいえ、臣は王子をお育てする覚悟が定まりましてございます」
「なぜじゃ、なぜそうなる」
キリトが解せぬという顔をする。
「長い話になります。老体には堪えますゆえ、失礼ながら、座してもよろしいでしょうか」
「もちろんじゃ。遠慮せず掛けよ」
(to be continued)
第60話に続く。
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年内の『月獅』の更新は、これが最終となります。
できれば年内に第3幕を完結したかったのですが、まだ3話もあるので来年に持ち越します。
長い物語にお付き合いいただき、ありがとうございます。
心より御礼申し上げます。
また、2024年も引き続き、よろしくお願い申し上げます。